FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

忘却の岸辺(4)

ただいまもどりました。
オフの世界にどっぷりひたって温故知新(←?)
今朝未明、入稿が済んでホッとしました―――。

コメントへのお礼、これからさせていただきます。
不義理をして本当にすみませんでした。
いただいたコメント、拍手コメはきちんと読ませていただいております。
お休み中もたくさんのご訪問本当にありがとうございました。
苦しいときの活力でした。本当にいつもありがとうございます。


【ねつ造】

ちぐはぐな黎翔と、見守る人々。


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(4)
* * * * * * * * *

鍛錬場では今まさに国王と将軍の槍の手合いが行われていた。

二人は練習用の槍を持ち、向かい合って槍身を触れあわせ、睨みあっている。
ピーンと張りつめ、誰もが固唾をのんで見守る中、じりじりと砂利を踏みしめる音が嫌に大きく聞こえた。

「ヒョウ」と声を上げ、体格の良い黎翔を更に上回る背丈の絽将軍は、
軽々と片手で槍を振り回し、低い姿勢から大股に一歩踏み込む。

黎翔は体を大きくひねりながら槍を回し、はじき絽の切っ先をかわす。

絽将軍は前に前におしながら自由自在に槍を操るが、
黎翔はめまぐるしく動く槍身を冷静に見極め紙一重でかわし、薙ぎ払う。

相手の呼吸の間合いをはかり、空中を跳躍し大きく槍をしならせ地に叩きつけ、
蹴りを入れると絽将軍はそれを軽々と長い腕で防ぐ―――。

二人の対練は、型の決まった演武であるかのように
素早くよどみなく流れるように続く。

黎翔は、目にも留まらぬ速さで連続突きで絽を追い詰めると
「はぁっ!」と一声。
大きく跳躍しキリキリと空中回転しながら、
バランスを崩した絽めがけて深く突きこんだ。

とどめの槍先は絽の腹に深々と―――寸でのところで翔は手心を加え地面を突き刺した。

絽将軍は負けを認めた。

見守る兵士らがやんやの歓声をあげ、辺りは興奮に包まれる。

目の前の試合の白熱した妙技に、方淵も目を輝かせていた。

「―――陛下、お見事にございます」
従者恭しく槍を受け取り、方淵が黎翔と絽将軍の二人に水の入った器を差し出す。

「ご苦労」

絽将軍に一つを差し出すと、絽将軍は額の汗をこぶしで拭いながら笑った。

それまで食い入るように黎翔と絽将軍の試合を見入っていた兵士らがざわざわと散開しはじめる。


「いやあ、陛下。私の完敗にございますぞ!」

「最後、勝ちを譲ってくれたのだろう?」

「いやいや、あの神速の連続突きには、私も付いてゆけませんなぁ。
スタミナが続きませんでした! 陛下の実力にございます」

「いや、力業にはかなわぬ。
やはりお前の方が一日の長ありだった。―――楽しかった」

黎翔ももろ肌を脱いで汗を拭く。

「御手合わせいただき、何よりにございました」
絽将軍は畏まり頭を下げた。

方淵が生真面目に黎翔の脇にかしづくと、絽将軍が尋ねた。

「…おや、今日の陛下のお付は。いつものメガネの側近殿ではないようですな?」

「あいつは事務方で忙しくてな。
ここについて来るといったのだが、
子供でもあるまいと断った」

「ははあ、
その若い補佐官も、文官とはいえよい面構えをしておりますな」

「だろう?―――方淵、お前もやらんか」
黎翔は笑いながら錬場を指さした。

「はは―――。お恥ずかしながら、私の腕ではご退屈させてしまうばかりと存じますが」

「そんなことはあるまい、少し手合いをしてみるか? 何を使う。剣か、槍か?」
絽将軍はウズウズして方淵に向かって尋ねる。

『絽将軍は、
腕の立つ若い連中と手合いをし、
コテンパンに叩きのめすのを何よりもの楽しみにしている』
というのは、文官である方淵の耳にも入っていた。

「私のようなものと、天下の絽将軍が御手合わせしていただけるなど、有難き幸せなれど
―――『夕刻には戻れ』と、李順様より固く言われておりまして。
畏れながら、陛下。そろそろお時間にて」

方淵は失礼にならないよう腰を低く奏上する。

黎翔は額の汗を布で拭うと、
前髪を手櫛で梳いた。

「…ん? そうだったか?」

体の汗を拭き終わり、黎翔は上衣を羽織りなおす。

「蒼玉国の御使者が。
夕刻、
お見えになる、と
伺っておりますが」

方淵がもう一度、ゆっくりと。

「蒼玉国の使者が、
×× 刻
……いつ? 
ああ。
この後、だな?」

聞き取れない『音』に、黎翔は眉をかるくしかめながら、自分なりに納得する。

辺りでは気勢をあげながら各人がそれぞれの鍛錬を再開していた。
大声を張り上げ切り込む者、ダーンと地響きを立てて倒れ込む者、掛け声をかけあう者たち
…そんな中であるから、時には風に言葉がさらわれることもあろう。

黎翔はクルリ絽将軍を振り返り、今日はこれまで、また来る、と告げる。

「よい汗をかいた。絽将軍、今日は楽しかった。またぜひ手合いを頼む」
「ありがたきお言葉」

機嫌のよさそうな黎翔に付き従いながら
方淵は先ほどの黎翔の様子にチリと違和感を感じていた。

『聡明な陛下が―――あのようなあいまいな受け答えをするのは、お珍しい』
これまで感じていたもやもやとした何かが方淵の胸の中で渦巻いた。
しかし、今は李順に託された従者としての仕事を完ぺきにやり遂げねばならない。

「…陛下、そろそろ夕刻が迫っております、―――お急ぎに」

「…あ? ああ」

方淵はハッとした。

―――『夕』

欠けた言葉―――

最近の陛下は、ますますに精力的で賢君として、尊敬すべき対象ではある―――
だが。何か。

以前とは違う、喪失感…

もやもやとしていた方淵の胸中に、一つの像が形を結んだ。

―――彼が失った、唯一の花。

それが、今の彼に欠落している何かの正体だった―――と。


あの日。
唯一の花が突如後宮から消えた。

人々が憶測すら口にも出来ないほどに
国王は痛ましく暗く沈み、ピリピリとした雰囲気を漂わせていた時期もあった。

あの頃、国王は見るからに痩せ、ギラギラと異様な目の色をしていた。

大臣の中には「ついに国王は乱心したのでは。世継ぎもない王の次は―――」と剣呑な言葉すら交わされていた。

そして日に日に様子が悪化した後、数日というもの国王は政務室に顔を見せなかった。

「陛下は、急なご視察に」
そう側近からは告げられた。

『いつの間に?』
『あのご様子で…?』
首をひねったのは方淵だけではあるまい。

これまでも時折忽然と王が姿を見せなくなることもあったが、今回ばかりは何か様子が違った。

決定的だったのは
『陛下のことについては、周りから何を聞かれても答えるな』

やんわりとではあるが、政務室内で口止めがあったことだ。

「勿論どのようなことであれ、事の大小に関わらず
陛下の最近のご動向について
一言でも口にすれば
…―――お分かりですね?」

あの時の側近の様子は異様なほど緊迫していた。

―――チラとでも喋れば、命はないぞ―――
と、まるで脅迫をうけたように。その気迫に、冷や汗が流れた。

『もしや、陛下はお倒れになったのでは?』
その時、政務室に努める者たちは皆、内心で思っていた。

だが3、4日すると、国王陛下はまるで何事もなかったようにすっきりと政務室に顔をだし、
元通り、いや以前にもましてお元気に、
国政にも精力的に取り組まれている…。

『…まるで、今日の陛下は
憑きものが落ちたように、すがすがしいご様子ですね』と
あの時の陛下のお顔を見て表現したのは―――水月だったか…?

『どちらにせよ、詮索なんて畏れ多くて
私たちには許されないことだけれども…』

そうだ。
詮索など、できようか。

そうだったから。
だれも口にはしなかった―――

消えた妃のこと。

「夕鈴」 と
呼ばれた、
あの女のことを―――。


方淵は立ち止まり、足元から伸びる自分の影をじっと見つめていた。

『今の陛下は、まるで影を失ってしまった
うつせみのようではないか―――?』


「…何をしている、方淵。
置いてゆくぞ?」

黎翔は既にかなり先に行っていた。

方淵はハッとして後を追った。
従者として遅れをとるなど、許されない失態であった。

* * * * * * * * *

蒼玉国からの使者との謁見の際、
「こちらは、瑠霞姫からのお預かりものでございまする」
と手渡された品があった。

「―――女物の、衣裳?」

なんだ、と黎翔は小声で吐き捨てるように李順の方へチラリと顔を向けた。

「衣裳に合わせた装飾品一式、何から何まで瑠霞姫自らお手に取って選ばれたものばかり。
こと、こちらの衣裳は蒼玉国特産の生糸に金糸銀糸をふんだんに織り込んだ最高級の生地を、我が国一のデザイナーの手により仕立て上げた一品ものにて、さぞ陛下のお気に入るものと、
くれぐれも大切に扱い、宜しく伝えてくれと、瑠霞姫様よりお預かり申し上げました」

黎翔は訳が分からなかった。

黎翔の小さなつぶやきをよそに、李順は使者に深々と頭を下げて謝意を示した。

「お使者殿、それは御心配りに感謝いたします。
ありがたく頂戴いたしました、我が主は大変喜んでおります、と
ご先方の瑠霞姫様にお伝えください」

李順がそつなく対応していると、
周囲に聞こえないよう黎翔はつぶやいた。

「そんなものを、どうしろと?
あの叔母上は、いつもこうだ―――訳が分からん」

李順は
「陛下。金目のものはなんでもありがたくお受け取り下さい」
と、事務的に小声で返答をした。

(やはり
―――覚えていらっしゃらないのですね…?)

李順は、はぁ…とため息をついた。



スポンサーサイト

SS はちみつの日

8月3日は「はちみつの日」として一本SNSに上げたものをブログに重複移植。


【バイト妃】【微糖】【オリキャラ※】
※静麗女官長(伝説の死神リーリー)がチョイ出ます。


細かいこと気にならない方に…。

では、よろしければ、どうぞ。

* * * * * * * * * * *
SS はちみつの日
* * * * * * * * * * *

いつものように政務室にお邪魔する。

陛下は嬉しそうに私の顔を見てニコと笑った。
だけど、
それっきり。

立ち上がりもせず、政務をつづける。

それに―――なんだか無口だった。
いつもの椅子の方に歩を進める。
その間に、もう陛下はいつもの真面目顔で
お仕事モードに戻っていた。

―――へん。

…いつも。
ならあれやこれや、甘い言葉をささやくくせに―――。
手を握って…私をだきしめるのに。


私。なにか、しちゃった?
陛下は何か…おこっていらっしゃる?

すごく心配になって、団扇の陰からチラリチラリと政務室の中に視線をめぐらせる。

物陰からチラっとだけ視線をめぐらせたはずなのに、
古株の官吏さんとバッチリ視線があってしまった。
私は心の中で「しまった」と叫び、思わず緊張感で耳たぶが赤くなるのを感じた。

その途端、ビシッと音がしたみたいに冷気が走った。

魔法にかかったように、部屋中の人が一瞬にして動きをとめた。

「―――」
陛下が、すくっと席から立ち上がる。
普段、身についた優雅なしぐさで物音一つたてないお方が、
珍しくドカドカと乱暴に足を踏み鳴らし、座っている私の方へと…。

やっぱり…何か私のことを、怒って―――
目の前にニュっと二本の腕が差し出され、私は息を飲む。

冷たい視線と凍り付くような室内の重苦しい空気の中で、
熱い手が私を捕らえ包んだ。

「…―――っ!」
ドクンと動悸が高鳴り、ギュッと目をつぶった。

ふわり、と浮遊感。
両手で抱え上げられた私は、とつぜんのことに驚き、思わず「きゃっ」と声を上げてしまう。
握り締めていた団扇を思わず取り落とし、パサリと地に落ちる軽い音がしたとき、
私は息もつけないほど強く抱きしめられていた。

―――熱い。そんなに…お怒りなんですか?
私は、思い当たる節もなく、おろおろしてしまう。
でも、きっと私が何かしてしまったんだ。
…悲しくなった。

「―――陛下っ!」
李順さんの鋭い声が飛んできて、続いてなにか言っていた気がするけれど、次第にその声は遠ざかった。

陛下はずっと無言。

どうしたらいいんだろう。
…涙が一粒、ポロリとにじむ。

「へーか。
私のこと、
何か怒っていらっしゃるんですか」

と、私は必死に絞り出した。
陛下は答えず、大股でズンズン歩き続ける。

「へーか!
わ…私。
何が悪いのか―――分かんない」
思わず涙がこぼれる。

「…!」
ぴく、と陛下の腕が動き、様子が変わった。

(…やっぱり、なにか…
私はしてしまったんだ―――。)

鈍い自分が悔しくて、どんどん悲しくなってくる。

「―――私が何か悪いこと、したんなら―――教えてください。
じゃないと、
私、わかんないです…」

ヒック、ヒックと嗚咽が上がる。

後宮のすぐ手前の渡り廊下まで来ると
陛下は「…」と声なきため息を一つ。

そして、欄干の手すりに私を下ろし、腰かけさせた。

泣いている私の頭を陛下は優しく撫でた。

「―――へーか?」
ようやく、私は陛下のお顔をみることができた。

陛下はすごくへんなお顔をしていて―――。
真っ赤で…目が潤んでて…

そういえば。
手が
熱かった―――!?

「へーかっ!?
も、もしかしてっ
おっ…おお熱がっ出てるんじゃないですかぁー!?」
私は叫んだ。

「ご め…ん」
絞り出すように口を開いた陛下の喉から
聞いたこともないようなガラガラ声が―――。

「陛下! 大変ですっ!!」

私は欄干から飛び降りると、陛下の手を引っ張て、後宮へと走った。


明るいうちから、陛下の手を引いて、あわただしく後宮に戻った私を見て、女官長さんが驚いた。

「お帰りなさいませ…。
まあまあ、何ごとでございましょう!」

「女官長さんっ、へーかが、へーかが
―――ひどいお熱をっ!」
私はまた涙があふれてきた。

「ゆーりん、いいから。
ちかづか、ないで
きみ、に うつったら 大変だ…」

ダミ声の陛下がかすれた声で。

「だって、私を抱き合げて
さらってきたのは、
へーかじゃないですかっ!」

「…だって。
こんな体調だから、
急いで仕事終わらせようと頑張ってるのに―――
人の気も知らない君が、官吏らと目合わせて顔赤らめたりするから…
おもわず…カッと…」

私の寝台におもわずギュウギュウと押し込めて
私は陛下の額に手を当て熱を測る。

「お熱、さっきより上がってるじゃないですか?!
こんな時に、お仕事―――だなんて!!
へーかのバカっ」

カーッと怒りが湧いて来るわたしは、陛下を子供みたいに叱ってしまう。

「…だって。明日。
―――君と約束があったから」

「…え?」

「君と、約束しただろう?
明日は君を下町の祭りに連れてゆく、と」

「―――あ!?」

そうだった。
明日は楽しみにしていた下町の夏祭り。

陛下は私が何気なく言ったことを覚えていてくださって。
だから、調子が悪いにもかかわらず無理をおして…?

「…陛下の調子がお悪いんなら
―――そんなの、どうでも良いことです」

「そうか」
陛下は、目をつぶって言葉を切った。

…どうだってよくないから。
陛下は頑張ってくださったんですよね―――。

私はシュンと頭をうなだれた。



すぐに冷たい水を張ったタライを持ってきて、寝台の脇に私のための椅子を置いてくれる。
絞った手布を額にあて、寝台周りを整え、女官長さんは何も言わないうちにあっという間にテキパキと看病しやすく整えてくれた。

「お医者様を、すぐにお呼びして…」
と私が言うと
「侍医はよい。
大げさにするのは止めてくれ。
今呼ばれては、仕事が進まん」
陛下が手をあげて制す。


「でも、すぐに診ていただいた方が…」
と必死で陛下を説得したけれど

「たいしたことはない」
と取り付く島もない…。

今の今まで政務にお励みだったというのは、今日やることがあって、
のんびり寝ているわけにはいかない、ということ、なんですね?

「どうしても、仕事しないとダメなんですか?」

「ああ。寝ている暇はない」

「人間、体調不良の時は、寝て直すものです!
無理してこじらせるたら長引きますよ。急がば回れ。結果的にそれが一番早道です!」

「知ってる。だが」

腹を立てて、私を抱えて政務室から飛び出してきたのは自分のくせに―――陛下は譲らない。

あー、っもうっ!
なんて、この人は…―――強情なのっ?!

「そんなに陛下がご政務がお好きとは存じませんでした!」
私は思わず腹が立ってきた。

「…」
陛下はゴホゴホと咳をした。

すると女官長が「畏れながら、失礼いたします」と陛下の脈をとり、様子を見る

「こちらを…」
女官長さんが小さな丸薬を包んだ薬包紙と吸い飲み、そしてはちみつ壺を持ってきて差し出した。

「このお薬をおのみくださいませ、すぐに楽になりましょう」

陛下は手を振り、人払いを要求する。

女官長は、にこ笑い
「皆、下がるがよい」と人払いをし、
「何かございましたら、いつでもおよびくださいませ」と、自分も下がった。

私は陛下にお渡しするが、陛下は頑として飲まない。
「いやだ―――薬は好かぬ」

そういえば、陛下って普段から薬類に対しては神経質だった。

「毒でも入ってると思って、警戒されてるんですか?」

「…いや、静麗女官長の薬なら間違いはないと知っている」

「なら!、すぐさまお飲みください!」

「ぜったい、やだっ!」
(―――へーか。小犬がでてますよ?)

キューンと尻尾を垂らして、おびえるような顔をする陛下。
人払いしているとはいえ。
熱で体が弱っているとはいえ
…なんて。

無力で可愛い… ←

「…どうして?」

「静麗の薬はことのほか効くが、―――酷く苦い!」

「ヘーカの、意気地なしっ! どうしてもお仕事したいって我儘貫くんなら、お薬が苦いくらい、何ですかっ!」

「…じゃあ。
君が飲ませてくれるの?」

「―――へ・?」

「苦くても、我慢しろって。
他人事だから言えるんだ、ゆーりんは。
君が口に含んで。その苦さに耐えられるかどうか試してみればいい
それができなきゃ、ぼくも、口にはしない!!
人のこと、意気地なしだっていうんなら
君が飲ませてみてよ!」

「ええ、判りました!」

よーし、そうまで言うのなら、やってやろうじゃないの!!

私は腹をくくった。

「あれ…。やるの?」
「やります!」

「―――口移し、だよ?
本気?」

「分かってます!」

「…ゆーりん。目が座ってるヨ?」
「女に二言はございません。
やるといったら、やります!
へーかと唇と唇がくっつくくらい、なんてことはありませんっ――
たんなるお仕事ですしっ…
これまでも…何度もっ」

私は思わずカーッと熱があがった

それを隠すように、あわてて、丸薬のはいっている薬包紙をガサガサと広げ、
吸い飲みの水をくーっと煽ると、丸薬を二粒、口に含んだ。

口に入れたとたん、強烈な薬臭さが口内から鼻をつき抜け、
言葉にはできないような苦みと…、痺れと、ありとあらゆる嫌なものに五感に支配され、体中が総毛だった。

「ふんが~っ!!!!!」
声にならぬ叫びを発し、私は猛然と陛下の頬を両手でつかむと、その口許目指し唇を寄せた。

その瞬間、陛下はキョトンとした顔をしていた。
赤い眼差しが見開いて…近づいて…
私は無我夢中でギュッと目をつぶったから、そのあとの陛下の表情は、分からない。

恐ろしい勢いで陛下に接吻をし…

そのあと二人で嵐のような苦い薬を味わった。

鼻も口も薬の味と匂いに支配され、
口の周りは痺れて、
頭も朦朧としてもう何がなんだか分からなかったけど
―――べろべろと、飼いならされた大型犬に口の周りを舐められてるような感触がしたのは気のせい?

ようやく陛下の喉がコクンと動いて、確かに飲み下した。

まだ痺れるような苦さが残っていて、苦悶にのたうつ私。

陛下は、はちみつ壺から大匙でトロリとした液体を掬い上げ
やおら自分の口に含み、
私にたっぷりとお返しを―――。


――――――――

だから、どちらにせよ、
陛下のお仕事は
はかどらなかったと思われます。

(おしまい)



忘却の岸辺(5)

少々最近の設定を取り入れております。
コミックスはの方には、ネタバレ注意。

【ネタバレ】【ねつ造】

消滅は
悲しみ、と救いをもたらし…


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(5)
* * * * * * * * *

世継ぎの君なき国王、珀 黎翔。

「王弟殿下を王都に呼び戻すべきでは」

「いやいや、すでに臣下に下ったお方を、何をわざわざ今さら…」
と、
王弟の扱いに王宮は真っ二つに分かれ、紛糾していた。


黎翔は冷やかにその論議に水をさした。

「いずれ、誰かが継ぐにせよ。
まずは白陽国が確固たるものでなければなんとしよう。

今の己らのように
たかが一人の子供の扱いで国を二分し、いがみ合い、争えば、
国力を削ぐことに繋がろう。
その隙に諸外国に狙われたらどうする?
万が一にも国を亡ぼされれば
名ばかりの継承者など何の意味も持たんぞ?」

「しかし、陛下!
あなた様に後継者がいないのは事実。
国民の安寧のため、どうされるおつもりか、お考えをお聞かせ願いたい!」

重鎮の一人が口火を切った。
周りはみなうなづいている。

「そうだな…どうしても聞きたい、というのであれば。
まずは我ら一丸となりこの国をたてなおし、盤石な国政が実現した暁に、教えてやろう」

と、冷たく言い放った。

* * * * * * * * *

日々精力的に、仕事に対して貪欲な狼陛下。

「―――李順?
どうした」

「陛下がご熱心にご政務に当たられるのは何よりですが…。
本気を出されると、それはそれで周りが辛いですね…」
李順は苦笑した。

政務室の面々は疲れていた。
だが、遣り甲斐で得る喜びの方がそれを上回っていた。

つまらないものを出せば一瞥もくれられず、容赦なくやり直しをさせられた。

だが、鋭い意見、新しい提案・手法は、適正に評価された。
まこと、惰性の政務ではなく生産的な取り組みと結果を求められた。

有能な者ばかりを集めている部署であるからして
誰もが陛下のご期待以上のものをお出しせねば―――と張り切った。

だが、新しいやり方というのは時に『敵』を産む。

『うまみのある』立場を手放したくない者というのは居るもので、
古い因習どおり暗黙の契約により、私利私欲を肥していた輩にとって
そこに光をあて暴かれることは、避けねばならぬことであった。

そういうわけで、
精力的に国政に尽くす賢王を目の上のたんこぶと疎む輩は日に日に増えた。

狼陛下はそれらを力で抑え込み、時には実力行使も辞さなかった。

――民のための、正しい国政を――と、尽くせば尽くすほどに
国内に敵を増やすとは、まこと皮肉なことであった。

獅子身中に虫ありのことわざ通り、
貴族や官吏といった国政を預かる支配階級社会の大物から小役人まで
王の庇護下に居て恩恵をあずかりながら、逆に仇なす者は後を絶たなかった。

* * * * * * * * *

そのころ
夕鈴は遠い地に居た。

宰相や州長官といった人々に助けられ、匿われ、遠い土地でたくましく暮らす夕鈴。

その彼女が唯一胸に秘めている希望、それは
『陛下にいつか会って、自分の気持ちをちゃんと伝えたい』 
という願いだった。

その時のために今は努力する時と彼女はとらえている。

自分の目で見て、聞いて、判断したい。
綺麗なことも、そうでないことも。

そういう思いから、王弟の住む地を訪れたいと思っていた。

晏流公に会って、どうなるのか―――それは夕鈴本人にも分かっていない。

しかし、
家族とか、兄弟とか、友達とか。
そういった価値観が「陛下と私は、生まれ育った環境が違うから、まったくかけ離れている」
と、分かれば分かるほど、
「陛下の悲しみの正体」を知りたい気持ちは募るばかりで、
夕鈴は自分の目で見て判断したかったのだ。


「兄王に命を狙われた、陛下…?
兄弟で憎しみ合うの―――?」
その事実はショックでなかったといえば、嘘になる。

王族がそういうものだ、といわれれば
頭では納得しなくてはならないと思うのだが
どうしても自分には分からない。

「だって、私は弟、好きで好きで、たまらないんですよ――?」

『そう。
だって陛下は、
私が青慎のことばっかり構っている様子を
嬉しそうに、くすぐったそうに見つめていた――』


「陛下だって、家族仲良く暮らす、そんな環境にいれば、
きっと、お兄さんや弟さんが好きになったはず―――」

冷たい狼でも。あの人の目は優しかった―――。
誰からも怖れられ、嫌われるなんて、それはわざと、そう演じているだけ。
あの人の瞳は、いつだって悲しくて、温もりを求めていた。
だから。きっと―――。

  …陛下。 人を信じて?
  遠くに行かないでください。

夕鈴は、遠ざかるあの人に心の中で必死に手を伸ばす。

『少しでも、あの人に近づきたい。
近づける方法が、どこかにあるはず。
私だけじゃなくって
あの人からも。
冷たい心の扉を開いて、出てきてほしいから。
冷え切ってしまったあの人の心を溶かし
人の世の温もりの世界に一歩踏み出すきっかけが。
きっと、どこかにあるはず…』

―――祈るように願うからこそ、
夕鈴は晏流公のことが放っておけなかったのだ。


「私を突き放して。
酷いこと言って、傷つけて。

なのに、私のこと心配して。
周宰相も、荷長官も、浩大も、李順さんも―――みんな
優しくしてくれるのは、
やっぱり陛下が甘やかしてくれてるから、ですよね…?」

『そんな風に大切にしてくれたから。
こんどは私が陛下に気持ちを届けたい』と

『たとえ玉砕したって』

あなたが好きだから
あなたのために何かしなきゃ、と

それは、前に進む自分自身の覚悟。

陛下は、―――遠い
なら、私あなたのところまで進もう。


夕鈴は胸に誓う。

「陛下。必ず会いに行きます。
待っててくださいね―――」と。


* * * * * * * * *

遅くまで政務室に灯が点いている。

「では、お先に」

「お疲れ様でした」

方淵は書類に埋もれていた頭をあげ、先輩に挨拶を投げかけた。

「御機嫌よう―――
…って言っても、私の機嫌は、最悪」

水月の手からパサリと書類が滑り落ちる。
彼は意識を保つため、小さく頭を振った。

「ああ…みんな帰ってしまった…。
どうしてこんな遅くまで。
私が君に付き合わなきゃならないんだい…」
水月はため息をついた。

「ぬかせ。お前の仕事を私が手伝ってやっているんじゃないか!
私こそ、とんだとばっちりだ!」

「こんな夜は…笛が吹きたくてたまらないんだけど、ねぇ」
水月はふわりと笑い、もう何もやる気がなさそうだった。

方淵は、他の者が皆帰ってしまったのを見計らうと、手元の書類を伏せ、
水月の方へ向きなおった。

「―――水月」
「…何か?」
真剣味を帯びた方淵の顔に、若干戸惑いながら水月は微笑んだ。
方淵は眉根に皺をよせ、慎重に当たりの様子を伺い、立ち上がり忍び足で窓や扉の外に誰もいないことをもう一度確かめた。
改めて座り直し、水月に向かう。

「―――陛下は、おかしい」
「そうだね」
ニコリと笑う水月。

「はぁ?」
こともなげに水月に即答され、
方淵は話の腰を折られたようでむっとした。

「おかしくなければ、こんなに仕事なんてできないさ」

「馬鹿をいえ。そのような怠け者は、お前だけだ―――そうではなく」
「いや。
今の陛下は…何かが欠けていらっしゃる。
そう言いたいんだろ、君は?
まあ――僕には何が欠けてるかまでは、分からないけどね」

水月はズバリと言い放った。

「水月―――貴様…」

方淵がまじまじと水月を見返すと、
水月はまるで遠い月を見上げるように天井の向こうに視線を向けた。

「人として、何かを失わないと
ああは、いられない、
…君は、そうとは思わないかい?」

「お前が言いたいことは抽象すぎてよく分からん―――だが。きっとそう云うことなのだろうな」
方淵はブスっとした表情で答えた。

「君は、何に気が付いたの?」
水月は自分の袂をさらさらと撫でつけながら、壁に背もたれ目をつぶった。

「陛下は、…欠けていらっしゃるんだ」

「欠けて?」

「そう――― 『夕』という文字が」

「夕!」

水月には、方淵が何が言いたいのか分かる。

「お妃様、だね…」

「正確には、元妃、だ―――」

方淵は几帳面に言葉を正す。
だが問題はそこではないと互いに了解をしているので、話を先に続けた。

「―――陛下は、夕という言葉が聞き取れない。
この間、軍部のお伴したとき、何度かそれを感じた」

「ふぅん」

「書類の中に、夕の文字を書いた…大切な書類の中に混ぜて。
読む者が見れば、明らかな間違いと分かる―――」

「それは君、すごい度胸だ。わざと間違えた書類を陛下にお見せするなんて―――!」
水月はまじまじと方淵を見つめると、珍しいことに彼のことを直接褒めた。

「馬鹿者、私だってしたくなどなかった…完ぺきな書類をおつくりすることこそ、私のモットーなのだ。
―――だが、私は知りたかったのだ。
へいかの耳は聞かず、
目は見えず。
あの女の存在も何もかもが、消えさってしまったのだ」

「見えない?
それは、わざと読んでいないフリをしているとか?」

「いや、あれは…『無い』んだ
概念もなにもかも―――
まるであっても掴めぬ空気か、流れる水のように」

「空気…水
だから、痛みも感じない―――と。
確かに一時陛下はお妃様を失い、たいそうお悲しみだった…。
そしてある日を境にすっきりと何もなかったかのごとく立ち直られた…。
だけど、本当にそんなことが、できるのかい?
あるものを無くすだなんて―――
何もかも知らないと、感じることすらない『無』に戻すだなんてことが…」

水月は方淵を見つめた。

「さあ、分からん。
…精神の問題なのか、
何か呪術的な強制によるものなのか―――
そういう方法があるかどうかさえ。私の専門ではない」

「ああ、君は―――超現実的だからね。
それに、たとえ陛下がそうであったとして。
現実的にはそれほど何か悪い具合があるわけでもなし」

水月は肩をすくめ、笑った。
その水月の態度は少なからず相手をイラつかせた。
方淵は怒気をあらわにする。

「茶化すな!―――そんなことを今は論じているのではあるまいっ!
たとえ実害がなかろうと!
私は陛下のことを心配してだな…」

「そう。―――何も、問題ない
それが、問題なんだ」

水月はそう言って、言葉以上に真剣な表情で方淵を見返した。

「あの方は、
そのために
一番大切な何かを失ってしまったんだね、きっと」

悲しそうに水月は微笑み、その吸い込まれるような瞳の色を見ているだけで、
方淵は堪らなく胸に痛みを感じるのだった―――。



[読書感想] 狼陛下の花嫁 第11巻

コミックス派の皆様にはお待ちかねの
狼陛下の花嫁 第11巻
2014年8月5日本日発売です。

個人的な読書感想文です。

いままでで一番甘くて、せつない…巻。
とくに陛下の心情の変化が、今の私にはすごくコタエました…。

幸せになってはいけないと自制し、
本気の恋愛に一線を画してるのは陛下の方で

本誌で1話ずつ読むのと、
単行本一冊分通して読むのでは
自分の中で、だいぶ見え方がちがった印象がありました。

踏み込んで共感したクローズアップした部分と同時進行で
別の角度のカメラが映っていて
少し引いた視点でより俯瞰的に心情の変化が追える、という感じ、でしょうか?

新鮮な視点で読み終えることができました。


まと先生の作品が大好きで、私が心惹かれる理由ってなんなのか。
これまでも自分なりに分析してきたのですが

たとえば
話が面白いとか、
設定が魅力的だとか
絵の上手下手とか
そういう単純な要素をはるかに飛び越した次元で
―――心に残る―――
こと、じゃないかな、と感じています。

まと先生の描く世界は
「なんどでも読みたい」お話なんですね。

なにが特別なのか
普通すぎて見えないところにちりばめられているから
―――だからそういうところが「センス」なんだと思うんですけど

読む側の精神的なコンディションとか、環境その他で
読むたびに感じることが違う、作品だと思います。

たとえばあるとき
見過ごしてしまったり、よく分かんなかったり(たとえば陛下の行動が、とか)した部分があっても
なんとなく破たんなくゆるゆると読ませてしまうかもしれない。

だからといって、侮りがたしは
読み返すごとに、それが変化するんですね―――。

いやぁ。
見過ごしていたものが、次には小さくキラキラ光ってみえたり。
埋め込まれたものが発現して見えてくるというか。

かくしミッ■ーとかイースターエッグ探しみたいな、喜びの発見が
何度読み返してもあるのが、この作品の魅力の一つかもしれません…。


そして、やさしい。

優しくて、易しいけど、深い。

―――描きすぎない、限定しすぎないところが、
心の琴線に触れて音楽のように、響くというか
オーディエンスの心のありよう次第で、読むたびに深みをます、というか。

印刷物という確固たる記号でありながら
うまれて消える、繊細な虹色の何かが、そこにある―――なーんて気が

 ↑
…ああ、なんだか、水月さんのような表現になってきましたよ?

水月さんの言葉は、私すごく分かる気がするんですけど ←
同族かもしれません …おもにやる気の面で―――(笑)


で。
11巻のまとめです。


細かいこと抜きに
一言で言うなら
「陛下にきゅんきゅん」です―――。

萌えキュンのキュンじゃなくて
小犬きゅんきゅん寄りの
せつないきゅんの方です。

以上。

巻末のオマケまんがだけで
一か月間のご飯のおかずになるわっ!―――というくらいの価値ありでございました。

へいか。(泣

そして、今日は私
陛下のために
ご一緒に
やるせなさに身もだえし
夢見るせつなさに涙を捧げます。


今日はよいものを拝読いたしました。
感謝。




忘却の岸辺(6)

昨晩は書きながら寝落ち。
書き足してようやくアップ。

入り乱れて嘘八百ですけれど、若干本誌設定も取り入れております。
(コミックス派の方はネタバレ注意)

【ネタバレ】【ねつ造】

失ってしまった、
それは
もう二度と。
還らないのだろうか――

なにもかも
痛みすら、彼方に。


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(6)
* * * * * * * * *

「陛下のご様子は―――?」
「周宰相。…お変わりありませんよ。
もうすっかりお元気になられ
あれ、あのように、ご政務にもご熱心にとりくまれ
――― 一臣下として
文句のつけようもございません」
きちんと片付いた書簡の山に視線を投げかけ、李順は乾いた声で笑った。

「陛下は―――お変わりになられましたな」

「そう、かもしれません」
李順は宰相から目を背けた。

「明日から四日間ほど、ご公務で他出と伺っておりますが
陛下のご体調の方は―――」

「問題ありませんよ。…宰相、何かご心配でも?」

「いえ」

周宰相の言葉の真意を、李順は言葉の裏で推し測っていた。

李順は綺麗に机の上を片付けると、もう一度がらんとした政務室の隅に目をやった。
いまは何も置かれていない床に、西日が差しこむ。なんだか無性に寂しかった。
そこには以前小さな椅子が置かれており、陛下の唯一の花が時折訪れては、長い時間じっと座って居たものだった―――。

李順自身、認めねばならなかった。
「…陛下が、お変わりになった―――そうお感じになるのでしたら、その通りかもしれません。
陛下は一つの悲しみ乗り越えられ、お強くなられた、と。
そう。受け止めてはいただけませんか?
たとえ以前と何かが異なったとして―――実害はありませんから」

「実害…?」

「なによりも、今。こうして以前にもましてご機嫌麗しくあらせられることが―――我ら臣下としてもお慶び申し上げねば、と…」

「我ら臣下に取って、陛下の御代が平安であれば何よりまさる喜びはございません。
ただ、静かな湖面とは裏腹に、
水底の奥に広がる混沌と、嵐の予感が―――」

「…また。周宰相のいつもの予言ですか?」
李順はあえて笑って見せた。
「特段心配は無用です」

周宰相の顔は血色が悪く、いつもと変わらぬ乾いた声で答える。
「たとえ表面上穏やかにみえたとしても…
つじつまが合わないのが―――人という生き物の難しいところでございますれば」

「それこそ、周宰相の気の回しすぎですよ。
重ねて申し上げますが、陛下はお元気です。…ご心配されませんよう」

「そうでありますように。
―――では、私はこれにて。
道中の無事を心よりお祈り申し上げております――」


* * * * * * * * *
夕鈴は買い物に出たついでに、ふとある噂を耳にした。

「国王さまが、この隣の州においでになる―――?」

「ああ、なんでも、隣の州ではさ。去年おととしと2年間、大水や災害が続いてねぇ、
それでも税金収めなきゃ許されないってんで、ずいぶんゴタゴタ続きだったんだけど、今回州長官と領主が替わったから、その視察だってウワサだよ」

聞き耳をたてていた夕鈴がつぶやく。
「隣の州―――」
腕を組んで考え込む夕鈴。

「…連れてってやろか?」
隣にいた浩大がポロリと口を滑らした。

夕鈴は浩大の襟首をつかんだ。
「―――知って、たの?」

「うーん。まあ、情報は」

「連れてって」

「…でも、直接会うとかは、―――きっと無理だよ?」
「構わない。…私も、まだお会いできない。
でも、チラっとでも―――ううん。一緒の場所に居て、同じ空気を吸えるだけでも、いい」

「お妃ちゃんのことだからさ。
…どうせ行くってきかないんなら
最初から案内したほうが。楽だからな」

浩大は笑った。

* * * * * * * * *

隣の州とはいえ、女連れで移動するのは大変だった。
ましてや身分を隠し、目立たぬように、もめごとに巻き込まれないように――。
細心の注意をはらっていても、若い女というだけで目を引いてしまう。

配役上、克右が夫役、夕鈴が妻役。それが一番自然だった。
旅の役人夫婦に扮した二人に、浩大が従者役で付き従う。
そうして隣の州まで馬車で移動した。

便宜を払ってもらったおかげで、スムーズに旅は進んだ。
しかし国王の視察があるという日程はあまり表ざたにはされていなかったにもかかわらず、王が視察の合間に立ち寄るという寺には多くの野次馬が出て、警備が大変厳しかった。

人垣にもまれ、三人は徒歩で移動していた。
王を一目見ようと、寺の境内はすでに人がいっぱいだった。門の外まであふれた人で参道は埋め尽くされ、夕鈴たちはその中で前も後ろも人垣にかこまれ立ち往生している。

「――どうして、こんなに警備が厳しいの?」
「うーん」
浩大が言いにくそうに言葉を濁した。

「この州が、災害や飢饉に見舞われて、重税で苦しんでいたって話――は」

「あ、ちょっと小耳に…。
灌漑用水の着工や、民のための病院もできるって…。
苦しんでいた民に救いをもたらすなんて、陛下はご立派だと思います」

「そうだよね」
浩大はなんだか意地悪そうに笑った。

「…なんで、そんな風に笑うの? 浩大」

夕鈴はチリっと痛みを感じた。
(――私には、見えていないんだ。だから…)

シュンとなった夕鈴に、優しげに克右が説明をした。

「ですから、お嬢さん。
これまで民を泣かせてまで集めた税金の行く先がどこだったか、
という話なんですよ。
――陛下はこのたびその膿にメスを入れ、
患部を切り開いた、というわけです」

「それはとても良いことだと思います。
悪いことを改善するのが、よくないんですか? 
ここにいる人たちのほとんどは、
陛下のなされた政によって重い税金から解放されたってことでしょう?」

「長い因習の中で行われた搾取という行為ですから、ね――。
その改善には、さぞ恨みもかうことでしょうなぁ」

夕鈴はようやく事の次第が飲み込めてきた。

「じゃあ、この厳重な警備って――」

「逆恨みをする輩がいないとも限らないってこと――かな」

浩大がさりげなくあたりの気配を読んでいた。
夕鈴は暗い顔をした。

「それって陛下が狙われている――ってことですか?」

「正攻法で狼陛下に手出しするなど、
そうそう簡単に行くことじゃありませんよ。
陛下の剣の腕前の前には何人たりとも敵わないですし。
陛下をお守りする近衛の精鋭部隊ときたら、
列強の諸国が本気をだしたって打ち破れない壁です。
…ただ、万が一にも、そういうことがないように
造反を防ぎ、民が巻き込まれないように
――という姿勢を示しておいでなのでしょう」

「そう、ですか」

「それにしても、この警戒では、
――陛下のお近くまで行く、というのは
むつかしいですね。
せっかくここまで来たのに」
克右は寂しそうに笑った。

庶民と王の、遠さを知る。
あんなにも近くで過ごしたのが夢みたいな話で。

その声を聴き、お顔を見て、触れられて――。
一緒に過ごした時が、なんと貴重なものだったか、思い知らされる。

「会えなくても、いいんです。あの方のお近くに来られただけで」
夕鈴は、言った。

* * * * * * * * *
国王は州に入るなり、休む間もなく公務に当たった。

州朴の庁舎を回り、長官や各部署の担当者と目通りし、すぐさま現場へ足を運ぶ。
灌漑用水の着工の視察。式典への出席。飢饉の状況を聞き、穀類を安く回してもらえるよう隣州に協力を呼びかける。病院を回り、遺児らが身を寄せる寺を回り――。

短い滞在期間の中、黎翔はめまぐるしく次から次へと目の前の一つ一つに取り組んでいた。

立ち寄ると情報が先に流れていた寺の境内は、民に埋め尽くされ、警備が大変そうだった。

公務を済ませたとき、その事件は起こった。

寺の境内の端。
人払いをしていたにもかかわらず、数名の男たちが侵入した。

今回不正を暴かれ、粛清を受けた官吏とその一派――。

男は女を一人連れていた。
「この恐ろしい独裁者が――」
男は叫んだ。

「いたずらに武力を振るい、古き良き因習を踏みにじる――
英雄気取りの若き王よ」

男たちが引き立てる手の中の女を見て、
李順はぎくりとした。

「どうだ。見ろ!
 お前の唯一の妃、とやらだ――
我々が手に入れた、お前の最愛の――」

(夕鈴、どの――?)
李順は眼球が血走るほど眼圧を高め、
視線の先にあるその姿を凝視した。

髪の色も髪型も、服装も。
顔つき、体つきさえ――
遠目であれば、あれほど見慣れた自分でも一瞬今違うほど、似ていた。

ざわざわと「妃だ」
「王が隠していた唯一の妃だ――」
「いや、すでに死んだと聞くが」
「まさか――確かにあの姿は妃…」
と、王の身辺を守る気高き近衛、警備の者たちも
一瞬判断に虚を突かれ、混乱が生じた

「構えろ!」
黎翔が叫ぶ

「お待ちなさい!」
李順の緊迫した声が飛んだ。

黎翔は無言のまま、薄笑いを絶やさない。

造反者は声を振り絞って叫ぶ。
もう逃げ場はない――富も権力も失った彼は、
せめて王に一矢報いることだけを願っていた。
すでにその顔には狂気を帯びたすらいた。

「狼陛下――お前も、大切なものを失う悲しみを、知るがよい!」

男たちは妃を盾に、手に手に武器を構え、王に向かって襲い掛かった。

正攻法で、王をしのぐのはむつかしい――
ならば、汚い手を使うまで。

敵ははなから潔く勝負する気はない、
泥臭かろうと、相手の命を取ればよいのだ…戦は。

捨て身の造反者に、王の警護はすきを突かれた。

しかし李順は見逃さなかった。
『境内の敷居をまたぐとき、女は敷居に載った――』

「私が自ら妃教育を施した方が、
たとえどんな時であろうと
敷居を跨がず足で踏みつけるなど。
そのようなことは決していたしません――」

李順は即座に『その女が夕鈴ではない』と判定を下した。

だが、王の周囲を固めていた数名の側近、近衛は知っていた。
王が愛した唯一の花の容貌を。

誰の手にも触れさせなかった花――
どれほど大切にいつくしんだか――
彼女を失ったのち、どれほど王が痛ましいありさまだった。

王の近くにいたものほど。
王が愛した唯一の花の記憶は、彼らの記憶の中に刻みこまれていた。

だから本人とうり二つの偽妃こそが王の愛した花だと信じた者たちは、
その女を盾に詰め寄る男たちを、誰もとどめる術がなかった。


しかし、国王は穏やかに前を見据えていた。

間近まで接近を許した賊を、情け容赦なく冷たい瞳で見下した。

その手は正確に、冷静に。
腰に帯びた剣に伸びる柄を握りしめる。
瞬間、ギラリと真紅の瞳に闇が注がれ、恐ろしい冷気があたりに満ちた。
「何をいっておる。馬鹿者が――」

王には、彼を阻む盾など、何も見えていなかった。


忘却の彼方に、置き去りにしてしまった、影。

何も感じない、何も見えない。
『夕鈴』という存在も、形も、時間も、なにもかも――。
彼にとって、それは虚無と同じだった。


そこに「妃」とうり二つの女がいようと、いまいと、
空気のように存在を感知していない彼の眼には、
ただ造反者の姿しか映っていなかったのだ。

そして王は振り下ろす。
酷薄な刃を――。


その場に詰めかけていた王の視察を待ちわび詰めかけていた民人は、目の当りにした。

「王は、元妃を、斬った――」

あたりは一瞬シンと静まり返ったあと、
こんどは地響きのようにうなりをあげ騒然とした。

夕鈴はそこに居た。
陛下が替え玉の妃ごと賊を粛清したそのとき、その場所に――。


*

忘却の岸辺(7)

やっぱり昨日は更新間に合わず。
某宅の睡魔ちゃんが最近ちょくちょくやってきて、私も連れていかれるんです…。

今回の陛下のように長い長い夜が欲しい?―――
…あ、でも。眠れないのは辛い。
やっぱり眠れて、なにより。

昼休みに急げ急げ。

【ねつ造】
忘れんぼ黎翔の元に忍び込む浩大のターン

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(7)
* * * * * * * * *

その晩、黎翔は眠れなかった。

床に入り、何度寝返りをうっても
安らかな眠りは訪れない。

黎翔にとり、闇は好ましいものだった

闇は汚れたものを包み隠し、
静謐にただ自分を受け入れ包んでくれた――。

なのに、今日は違う。

「何か大切なものが、あったはず――」

胸を押しつぶすように圧し掛かる想い。

何も見通せない闇は
チリチリともどかしい焦燥感だけを煽り、掻き立て
寝苦しさは増すばかりだった。

目と鼻の先にあるはずの己の手すら、見えない。
手を握り締め、その感覚を確かめながら
黎翔は昼間の出来事を思い返す。

 ***

目の前にいたのは、一人の男、
なのに
手ごたえは、一、ではなかった。

倒れた躯は二つ。
確かに、そう見えた。

頭の中の雑音が酷くて半ば呆然とした私ごと
駆け寄った側近が幕で覆い遮断した…。

 ***

造反者の粛清。
それ自体は黎翔の身辺では飽きるほど繰り返された景色で
「いつものこと」の一つに過ぎない。

いちいち呵責を感じる必要もない。

何かを選択すれば、何かを切り捨てる。

文字通り、切り捨てようと
それは国の安寧のための責務の一つ。

『王』は選ばねばならない、
選べる未来は、いつも一つだけ。

一方に良かれと選んだ結果は、他方に不都合なのだ――。
我らにとってたとえ一分の理もなくとも、彼らなりの理はあっただろう。
だが未来は一つ。
夢破れる者は確実に存在し、彼らの望む未来を失う。

やり場のない悲しみと絶望は怨恨を生み
恨みの矛先は『王』に向けられる。


力を実行するものは恨まれる。
その構図は、あまりにも単純にして明快だ。

国の継承者として生まれたものの宿業。

都合が悪ければ、処断し
始末が終われば、忘れる。

それは世を統べる者として
逃れられない義務の一つであった。

「生まれて死ぬ。
作っては、壊す。
世の中はその繰り返しだ――。
誰であれ、代わりはある。
代わりがない歯車など、自分も含めこの世にはない――」

黎翔は諦めにも似た境地で達観していた。

 ***

眠れぬ夜は長い。
シンと物音一つしない室内に一人。
黎翔は目を閉じ眠ろうと努めたが
意に反し、意識は混沌の闇の泥の中をあがくばかりだった。

『何かを選択し
何かを切り捨てた』

殺伐とした毎日に潜む、よくある出来事。
…だが今回だけは
どうしてか、後味が悪かった。


あれごときを引きずるほど
青臭い自分でもなかったはず。

では、何が

――衆目の前だったから? 
いや、違う。

――人々の目が、奇異な色合いを帯びていたから、か。

チガウ。

奇妙なのだ。

自分の内に、無い…記号。
空白のどこか、何かが欠けている。

黎翔には、考えても考えても分からない。

自分には
見えない何かがあって、
聞こえない何かがある、らしい。

光線の具合か、死角かといえば、そんなはずもない。
目の前にあるものが見えないなど、そんな不思議なことがあろうはずもないのに。
では、白昼夢? …にしては、たちが悪すぎる。
一瞬気を失っているとしたら、それは多分未だ体調が万全でないせいだろう。
高熱で寝込んだあと、自分の中で多少混乱ががあるのは承知の上。
体は元に戻ったのだから、あとは時間をかけるしかないのかもしれない。

「大丈夫だ――気にすることはない」
黎翔は、頭を振って、自分を落ち着けようとした。

でも、何か。
何か
大切なものがあったはずなのに――


何かを選択し
何かを切り捨てた……?

黎翔は
それすら思い出すことはできなかった。


* * * * * * * * *

寝返りを何度うったことか。
諦めに似た気持ちで、剣でも振るおうかと寝台から身を起こしたとき、天幕のそとから声がした。

「おい。――あんた」

「浩大か? …久しぶりだ」
黎翔はすんなりと『浩大』と自分の口から出たことが不思議だった。

浩大…たしか。
一年ほど地方に――地方?
いや――違う、王宮によびもど、し
なぜ私は、呼び戻した?

「…相変わらず、口が悪い、な」

浩大なら、なぜ、ここにいる

黎翔は再び混乱し、頭の中を音にならないノイズが占めた。
思わず目を固く閉じる。

浩大に関する何か肝心なものが抜けていて、
自分の中でつじつまが合わない。

混乱の最中の黎翔に、どこからともなく浩大の声が続いた。

「あんた――どういうつもりさ?」

「…?」

「俺に守れっていっておきながら
…アンタは、ためらいもせず、消すのかよ」

「なん、の――ことだ?」
黎翔は頭を押さえながら、掛け布を剥ぎ
浩大がいるであろうと思われる方に体を向き直した。

「アンタはあの時、替え玉と分かってて斬ったのか?
それとも知らず斬ったのか。
…もうあの子のことなんか、どうでもいいってか?」

浩大が何のことを言っているのか、黎翔は全く分からなかった。

寝台の幕を片手であけると、重たい空気が流れ込む。

暗闇の中に、ギラと鈍く光る二つの目が浮かんでいた。
森の中で野生の大虎と鉢合わせしたような、気迫を感じた。

「私が、お前に何を守れと言った……?」
黎翔は思い出せなかった。

そうだ、浩大は地方から王宮に呼び寄せて…
浩大に、何を守れと、私は言ったのだった――?
記憶の中には、何もなかった。

「汀、夕鈴――あんたの妃、だろ?」
浩大はつぶやいた。

「――何? 私の……き、さ、き?」
黎翔には肝心な言葉が聞き取れない。

砂嵐の向こうでザリザリとかき消されたように
ノイズが不自然に脳の端をよぎるだけ。

「なんの、こと、だ…」


浩大は、夕鈴の身辺警護を続けるため王宮を離れていた。
だからその間に起きた黎翔の異変については何も情報を持たなかった。

だが浩大には思い当たる節があった。

浩大の中にある拭い去れない光景。
その昔、黎翔の母が何をしたかを、浩大は知っていたから――。

あの時の記憶が、浩大の脳裏にフラッシュバックした。
じわりと汗をかく。

「はん。
そっか…。そういうことか」

浩大は鼻の下をこすり、顔をしかめた。

「――なぁんだ。
あんた、もう
夕鈴。
要らないんだな?」


「……お前が言ってる
×× が何なのか
私には。
分からない」

黎翔は頭をかかえて呻いた。

「じゃ――いいんだな?」

「諾否を問おうと…
私は何を――?」

「それすら分かんねーなら。
…今のアンタに資格はねえな」

「きさま、私を誰だと」

「王様だろ?
あんたは『王様』で
ひとつの未来を選んで、
ひとつの過去を捨てた」

「え?」

「……あんたはもう、
切り捨てちまったんだよ。
もう二度と知る必要はないサ――」

隠密は、目を閉じて、立ち上がった。

黎翔は手を伸ばす。

「――まて!?
お前は…」

黎翔は苛々とした。

「――じゃ、な。
王様。
あんたが切り捨てちまったとしても――
俺にとって命令は命令だ。
悪ぃけど
もうちっと、付き合ってくるぜ」

黎翔は浩大を引き留めようと立ち上がるが
隠密の身ごなしの方が早かった。

「――待て!」
黎翔は小刀を投げた。

隠密は指先でこともなげに飛んでくる小刀を空中で止める。
二本の指で挟んでいる良く研がれた刃物をチラと見つめると、浩大はため息をついた。

「ヘーカ。
…今のあんたが忘れちまったとしても、
あの子を二度切ることはないじゃんか――」

「あの、子?
――誰」

(ふうん、それは聞こえるんだ)
浩大は口角をきゅっとゆがめた。

「ヘーカ。
あんたが『おまえの命に代えても、あの子を守れ』って
そう言ったんだぜ――?」

黎翔は浩大を留める手を降ろした。

隠密は音も立てず、去った。


*

[日記]LaLaDX 9月号 狼陛下特別編ネタバレ

2014年8月9日発売 LaLa DX9月号
早売りを本日8月8日ゲットです。

以下はネタバレを含む日記ですので、お気をつけください。

お気に召されません方はそっとブラウザバックいただければ幸いです。
失礼お許しください。

本誌から出張
可歌まと先生の「狼陛下の花嫁」のスピンオフ、特別編が掲載

続きを読む

忘却の岸辺(8)

さてさて。更新が遅くなりました。
続きます。

【ネタバレ】【ねつ造】


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(8)
* * * * * * * * *

いつだったか…
遠くを見つめて、一瞬泣きそうなお顔をされているあなた
私は慰める言葉一つ持たず
どうしてよいのか分からなかった

あなたを一人にしておけなくて、
ためらいがちに手を伸ばす。

あなたは、私の存在に気が付くと
小さなため息をつきながら肩の力を抜いた。

ふっと頬を緩め、赤い瞳が私をとらえる。

もうあなたは微笑んでいて、悲しいそぶり一つ見せないけれど
その瞳の奥に潜んでいた悲しみが何なのか私は知りたくて
必死に覗き込んだ。

ギュッと私を抱き寄せたあなたの腕は力強く
それは「夫婦演技」という仮染めの役割と知りながら
小さな胸の痛みと、あふれそうになるあなたへの思いで
目頭が熱くなった。

「―――どうした?」

「いいえ、私は何も。へーか、寂しくないですか?」
「どうして? 寂しくなんかないよ。
君がいるから」
そういって、指先で頬に触れる私の指は赤らみ
「君の指先の、この血潮のぬくもりが愛しい」と握り締め、
優しく私の爪先に口づけを落とした陛下。

胸に灯るほのかな熱を絶対あなたにだけは知られたくないのに
「私には、君がいてくれれば、それでいい―――」

そういって、何度も何度も。
抱きしめて、笑って。
私の髪を梳いた―――。

陛下。
あれは、本当に、
ただの演技だったんですか?

* * * * * * * * *

昼間、目にしたショッキングな事件。
夕鈴の心は傷ついていた。

遠目だったし、全体が見えていたわけでもない。
人ごみに押されながら断片的にうかがえただけで
本当は何があったか、分からない。

すぐさま克右が彼の大きな外套で夕鈴を包み隠し、人ごみの中連れ出した。

気が動転していた夕鈴には、どこをどうやって連れ出されたか分からない。
ただ人ごみのただ中でもみくちゃにされながら、人々が口々に叫んでいる言葉が次々耳に飛び込む。

「国王が寵妃を斬った」
「ほれ、王宮から消えた妃! なんとこんなところに居やがった!」
「何か気に入らぬことをしでかしたのだろう」
「造反者と裏でつながっていたらしい」
「悪女は斬られて当然じゃ!」
「やっと陛下も目の前の曇りが晴れたのじゃろ!」

人々の噂は勝手な憶測で尾ひれがついた。

夕鈴は唇をかみしめた。
「陛下は―――私を斬ったんですか?」
「あんたは、何も気にするな!」
克右が低い声で叫ぶ。
軍人の克右は人ごみの中でも頭一つ抜きんでて体が大きく、外套にくるんだ夕鈴を抱きかかえるように連れて足早に安全なところへと移動した。
「ダンナ、こっち!」
浩大が遠くから呼ぶ。
チョロチョロ人に紛れて動き回るが、地の利、人の流れを読むのはさすがにうまい。

小半時も歩きまわり、ようやく人にぶつからずに歩けるあたりまで遠ざかった。
夕鈴をそれまで小脇に抱えるように密着していた克右は
ハッとして、思わず不自然なほど急によそよそしく距離を取った。

外套をはずすと、夕鈴は青白い顔をしてカタカタと震えていた。
浩大が馬車を操ってあらわれ、三人は街の宿屋まで人目を避けて移動した。

馬車に揺れながら、夕鈴は物思いにふけっていた。
二人は声もかけられずその様子を眺めていた。

彼女も含めた大勢の目の前で
国王、「狼陛下唯一の妃」―――正確には、「狼陛下唯一の妃そっくりの女性」を、ためらいもせず処断した。

一瞬見ただけだが、夕鈴も自分自身で鏡を見ているかと思うほど、
姿かたちのよく似た替え玉の妃だった。

その偽妃をためらいもせずに黎翔が手にかけたことに、彼女は大きな衝撃を受けていた。


『もう、私は要らないんですか?』
夕鈴は声なき声で叫んだ。

(―――忘れてしまえ、といったあの人。
その言葉通り、陛下は私のことなんて
すっかり忘れてしまったんだ―――)
と、夕鈴の胸には重たくその事実がのめりこんだ。


「何かの間違いじゃない? やっぱり、なんとかして陛下に会いたい」
という思いと
「今は、下手に動かない方がいい。
ましてや陛下とは、お会いしてはだめだ」という克右の言葉の両方で
夕鈴の気持ちは激しく揺れ動いた。


宿屋につき当りを注意深く見まわし
だれもつけていないことがわかるとようやく三人はほっとした。

部屋に戻って人心地付いた途端、
浩大はすっくと立ち上がった。

「軍人さんよ。あんたにものを頼むのは癪だけどさ
お妃ちゃんのこと、しばらく頼む」

それだけいうと、あとは何も言わず
ニカっと笑ってあっという間に浩大の姿を見失った。

夕鈴も克右も口にはしなかったが、
二人は同じことを想像していた
(きっと浩大のことだから。陛下の元に忍んで行ったに違いない)

(浩大が無事に陛下の元に行けたのなら。
陛下の様子を聞きたい―――)と何度も思った。

浩大がいない間、克右と二人で狭い部屋に夕鈴はいた。

若い娘の夕鈴の素性をごまかすために、
克右と夕鈴の二人は「夫婦」という設定で旅をしていた。

最初浩大が「オレがお妃ちゃんの旦那役、演るね」と立候補したのだが、
どうみても若作りの浩大は夫というには役不足だった。

それで、克右と夕鈴の夫婦に、従者の浩大、というパターンに収まった。

狼陛下御来臨の噂でこの小さな町の宿屋はどこもいっぱいだったから、
夫婦は宿屋の二階にある狭い一室に通された。
従者の浩大は少し離れた布団部屋だった。

「金は出す。もう一部屋用意してくれないか」
と克右は必死で交渉したが

「あいにく部屋がなくってね。従者に一部屋とは、贅沢だね」
「いや、つ、―――妻を。少し静かにしたくってだな…その。要するに、オレはイビキがすごいから、いつも別々の部屋で寝てくれって叩き出されるんだよ」
必死に話を作り、克右は頭をガシガシと掻きながら笑って見せる。
「イビキくらいなんだい! でもまあご夫婦だから多少狭くても勘弁しとくれよ。
かわいらしい奥さんじゃないか。今日くらいは仲良くおやりよ」
宿屋の女将はにべもなかった。

(―――あの方の…だからこそ、
オレたちと近すぎる場所で寝かせるわけにゃ、
いかんだろう?)
克右は冷や汗をかいた。

警護上のことがなければ、
克右が一人で野宿すればいい話だった。
だが今、浩大がいない。

身軽で小柄な隠密と異なり、
大柄な軍人の克右は身を潜ませる術には長けていない。

身近で守らねばならぬが、
あの人の……と、
同じ部屋で寝るわけにはいかない―――。

克右は頭を悩ませていた。

部屋の中央には衝立が置かれ、二人は部屋の端と端に寝台を離した。
しかし狭い部屋のこと、大した距離もとれず、寝間着に着替えるための衣擦れの音一つで顔を真っ赤にしている彼女を見ると克右は申し訳なくなるばかりだった。

「ちょっと、外で一服してきまさあ。
お嬢さんはゆっくり着替えて寛いでいてください」
そういいながら、克右は立ち上がった。

だが、彼女を一人にして遠くに行くわけにもいかない。
克右はドアの外でため息をついた。

浩大は宿屋の構造にあちこち目配せをし、確認をした。
いざというときに何があっても彼女だけは逃がさねばならない。

王宮から、狼陛下の唯一が消えた。
さまざまな手合いが、その妃の消息を躍起になって探している。

めぼしい場所には間諜がはびこっているだろう。
見つけたものには報酬が渡されるという話も聞いている。

今日、寺で起きた逆賊が、狼陛下の目の前に唯一の妃そっくりの女を引っぱり出した。
誰もが「唯一の妃」が狼陛下の弱点であると思っている。

斬られた女とよく似た女が
同じ場所の、すぐ傍にいる―――。

これはある意味、とても危険な状態だった。

克右は用心深く入口のドアに仕掛けを作ると、
そっとドアの内側に戻る。
奥の寝台を使っている夕鈴はすでに横になっているようだ。

克右は卓の上に置いてあった灯火を手に取り、そのまま入口の扉の前にどっかと腰を落とした。
胡坐をかき刀を肩にかけ腕組みをしている。

「克右さん、お布団で寝ないんですか―――?」
「ああ、今日は寝ずの番だ。隠密に約束しちまったからな」
克右は笑った。
「お嬢ちゃん、あんたはぐっすり眠りなよ。今日はいろいろ疲れただろ?」
「…はい」
「克右さん、本当にお布団で寝ないんですか?」
「気にするなよ。一晩や二晩寝ないくらい、オレはどうってことないから。
軍人なんて、頑丈なだけが取り柄だからな。
さ、あんたは寝てくれ―――明日は朝早い。
さ、明かりを消すぜ?
お嬢さんは、安心して休んでくれ―――」
克右は灯火を吹き消した。

「…はい」
夕鈴は渋々うなずき、布団を頭からかぶった。


*

忘却の岸辺(9)

お盆休みに入りました。
みなさまお元気でお過ごしですか?


【ねつ造】


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(9)
* * * * * * * * *

浩大は帰ってこなかった。

私は明け方まで、眠ることはなかった。
たぶん、それは克右さんも同じだと思う。

身動きすれば、克右さんが気遣うとおもったから
寝返りを打つこともできず、ただ息をひそめていた。

ふかふかの寝台の上なのに。
ジッとしていることがこれほど辛いとは思わなかった。

ギシリ、と扉の方に向きをかえる。

黒い塊のような人の姿が暗闇に慣れた目の端に入る。
克右さんはずっと扉の脇で刀を担いで座り続けていた。

「――ずっと同じ姿勢で、疲れませんか?」

私の声は、静かすぎる室内の中に、思った以上に大きく聞こえた。

克右さんは優しい目をして笑った。
「… 慣れてる」

私は守られることに慣れすぎていて
護る人の辛さを本当にわかっていたんだろうか――。

「ああ、お嬢ちゃん。もう起きてるんなら…話は早い。
悪いが身支度をしてくれるかな?」

「……? あ。はい」

強張った体をそっと伸ばしてみる。
あちこち凝り固まって、痛い。

克右さんは私に『おはよう』とは言わなかった。
お互い眼が醒めていることは知ってたんだったら
それならそうと、もっと早く声をかければよかった…。

ゴソゴソと衝立の裏で着替える。
「何か、あるんですか。今日は」
「いや、何だか。お客さんらしい」
克右さんも大きな伸びをした。

「お客さん? ――こんなに早朝に? まだ陽も上がってないですよ」
「陽の上がらぬうちに用のある輩、なんだろうな」

私は思わずビクリと震えた。
…それなら、と急いで着替えを続けた。

「浩大は?」
「帰ってこない」
浩大は気配を消すのになれているから、もしかしたら帰ってきているのに姿を見せないだけかと思ったけれど…。
「やっぱり? もう少し待った方が」
「いや、すぐここを出た方がよさそうだ」
「浩大、置いてくんですか?」
「…あいつのことだ、すぐ追いつくだろう」
克右さんは軽く屈伸をしたりして体を動かしほぐす。
テキパキと持ち出す荷物を手に取った。
「どうして、そんなに急ぐんですか」
「昨日、陛下を覗きに行った寺かなぁ…。後つけられたかもしれませんね」
「あと、を?」
「替え玉の妃――ありゃ、あんたにそっくりだったじゃないか。後宮の奥に咲く王だけの花――。
普通ならその顔さえ知らない妃とはいえ、知ってるものは居るってことだ。
そんであんたを探してる奴らは、血眼でそういう条件にあてはまる容姿の女を探してるってことで…。昨日、あんたをあそこに連れてったのは間違いだったかもしれん」
克右は頭を掻いた。
(間違いだった、かもしれん。あんなところを、お嬢ちゃんに見せるつもりはなかった――)
「……」
「とにかく、移動中、その伊達メガネは絶対はずさないでくださいよ」
机の上に置いてあった、黒い丸メガネ。
この旅に出る、と決めたあと届けられた荷物…荷長官が一式整えてくださった心配りの品の中に入っていた。

ああ…確かに。
王宮の掃除でも、こんなふうに変装してた。
でも、たとえメガネをかけていても、掃除婦の姿をしていても、
陛下はすぐ見破って…私をからかったっけ。

陛下ご自身、王都に下りるときはいつもメガネをかけていた。
メガネかけるだけで別人になれるのなら

陛下の「変装といえばメガネ」という習慣は、もしかしたら荷長官の元で育ったから?
それとも陛下がそうされてるのを知っていて、荷長官はわざわざ入れてくださったのかしら…。どちらにせよ、理解のある御方の協力があって、今の私の行動が成り立っている。

――みんなを振り回して――
私は何をしている?

その時克右さんが切羽詰まった低い声で急いで荷物を抱えた。
「――着替え中、すまねえ、ちっと急いでもらえるか?」
「はい」
私はその緊迫感に気おされて、昔の思い出にひたっていた頭をプルプルと振りはらう。

「こっちはダメだ。そっちから、出る」
「窓から?」
「二階の望楼の張り出し廊下から回り込んで、外に出よう」
「…はい」
克右さんが私にバサリ、と私に外套を被せた。
埃っぽい男物の外套は大きくて、引き摺りそうな長さだった。
陛下の香りと違う――と思った。

「すまん、少し我慢してくれ」
克右さんは申し訳なさそうな顔をした。

「いえ、すみません」
シュッと寝具のしわを伸ばして、立ち上がる。
ほんとうはもっと周囲の片づけをしたかったが、克右さんのそぶりから、それほど悠長な暇はなさそうだとあきらめた。

そっと窓をあけ望楼の廊下へ出てゆく。柱の陰から辺りを見回す克右さん。
「よし、こっちだ」
手招きされ、腰を低くして後に続いた。

まだ暗く、そろそろ明け方で東の空がほのかに明るくなりはじめていた。
馬車のつなぎとめた厩まで、静かに誰にも見とがめられず移動できれば――。

「だめだ、こっちは見張りが立ってやがる。馬は使えない」
仕方なく裏通りの方へ回り込む。

「こっちこっち。移れるか?」

克右さんが四つ這いになり大きな背中を踏み台にする。

わたしがどうしようか躊躇っていると
「遠慮せず、乗れ!」と克右さんが小さく鋭い声をあげた。

ごめんなさい、と謝りながら沓のままその背を踏む。

(人の背を踏む、というのは辛いことね――)とその時思った。

欄干を乗り越え、柱から大きな立ち木に渡る。すぐ後を克右さんが追いかけてきて、手取り足取り指示をだしてくれたので、穏便に枝伝いに目立たぬように地面に下りることができた。

「――こっちだ」
克右さんは用心深くあたりを見回し、先に進む。


私はどうして、ここにいるんだろう。
私の我儘で、この人たちをこんなところまで連れてきてしまった。

――浩大は帰ってこない。
克右さんは、足手まといの私を連れて逃げている――

浩大は国王の身辺を守る隠密で、克右さんは軍部や諜報部といった部署で
国王がその腕を見込み頼りにする、有能な人たち。

その人たちが、庶民の私のワガママに付き合わされて、身を挺す――

土足の沓で踏まれようと、その誇り高い背中を差し出し。
昼も夜も私を守るため、固い床で座って明かす…

 わたしは妃じゃないのに――?

そのとき、克右さんに着せられた大きなマントの裾を踏み、
私はつんのめってしまった。

「…おいっ、気をつけてくれよ!」

克右さんが慌てて私を助け起こしに駆け寄る。

四つ這いから膝立ちになり両手に食い込んだ砂利を払い立ち上がる。
パンパンと膝の前についた泥を叩く。

「……ごめんなさい」

伊達メガネごしに自分の手がにじんで見えた。

「急ごう」
克右さんが手を差し出した。
――一瞬、陛下の手のように見えた。

…おいで、ゆうりん!

あの人は笑って、かろやかに手を差し出した。
あの人と居れば、どんなことも怖くなかった。


だけど今はなぜだか、怖くて、悲しくて。
前に進むのが辛かった――。



*

忘却の岸辺(10)

お盆、みなさまご家族と静かにお過ごしくださいませ。

【ネタバレ】【ねつ造】

辛いことは重なるもの。

逃避行の最中の、それは冗談の慰めか、優しさか。
【克右×夕鈴】のターン。
※CP注意

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(10)
* * * * * * * * *

運よく辻馬車を拾うことができた。
だがしばらく行くと、克右は
「ああ、すまん。そこで降ろしてくれ」と言って、すぐに乗り捨てた。

元妃を安全な場所まで連れ戻すことが最優先だった。
克右はできうる限り注意を払った。

途中人通りの多いところを徒歩で通り抜け、わざと急に店を冷やかすふりをして立ち止まり、緩急をつける。不審な行動を取る尾行がいないかどうかを確認する。またどこへ向かったか形跡を残さないため、辻馬車は方向を何度も変え、乗り継ぐ。
軍部の加え諜報部の経験が生きていることに、克右は苦笑した。

少し歩いて遠ざかり、また離れたところで馬車を拾う。
そんなことを何度か繰り返し、途中で克右はふいっと大きな宿屋に立ち寄った。

「大きな宿ですね。今日はここに泊まるんですか?」

「いや、ちょっと用事があってな。
すまんが一緒に来てくれ」

物珍しそうにあたりを見回す夕鈴に、克右はひそひそと耳打ちした。

「…すまんが、あんまりキョロキョロしないでくださいよ?」

ああ、そうだった、と夕鈴は恐縮し、目立たぬよう外套を目深にかぶって伏し目がちに克右の後ろについてゆく。
そこは駅伝の宿泊設備や交通手段としての馬つぎを提供している大きな宿屋で、逓送(ていそう)物も扱っていた。

店に入ると克右は
「ちょっとここに座っててください」
と一角に置かれた椅子を指差し、思い出したようにさらに付け加えた。

「…絶対、誰に声かけられても相手しないように。
もちろん、他人のうわさ話なんぞに、くちばしなんか挟まないでくださいね?」
と念を押した。
潜入調査で、二人で飯店を回ったとき、狼陛下の悪口を聞けば片っ端から説教に回った彼女のことを思い出して、克右はそう付け加えた。
身に覚えのある夕鈴はコクコクうなずいた。

克右は奥を覗き、店の主人に声をかける。
すると主人は一旦奥に引っ込み、手には小さな紙包みをもってきて、克右に渡した。

克右はサイフを取り出し、金を渡す。
それから隣町に行く馬車はないかと尋ねた。

そんな調子で、塩梅よく隣町までの定期便の荷馬車に乗せてもらう手筈を克右は整えた。

「さ、行きましょう」
用事が済むと、克右は待たせていた夕鈴に声をかけ、店を出た。

馬車が発着する広場までの途中、人気の少ない立木の下で克右は立ち止まった。
そしてやおらさりげなく夕鈴の死角に入る。
くるりとあちらを向くと、素早く手にしていた小さな包みをあけた。
しばらくうつむいて何かを熱心に見ると、すぐにガサガサと荷物を包み直し、懐にぎゅっと入れた。

克右はむつかしそうな顔をし、唇を噛んだ。

宿から逃走するため被せられた克右の外套を相変わらず夕鈴はかぶっていた。
伊達メガネをかけ男物の外套の隙間からそっとその様子を見ていた。

克右の渋顔をみて、夕鈴は様子がおかしいと感じた。
「どうか、しましたか?」

「…いや? 荷馬車乗り場はもうすぐで―――」
克右は声をかけられ笑ったが、その様子は無理しているようにも見えた。

「あの。何か…?」

夕鈴が重ねて尋ねようとしたが、その時克右は急に大声を出して、広場の反対側に止まっていた馬車を指差した。

「あの馬車だ! 急ごう、もう出発するみたいですよ」
二人は慌てて馬車に駆け寄る。

幌をかけた狭い荷馬車の中で、二人は向かい合わせに座っていた。
荷物の隅に乗せてもらっていることもあり、窮屈なのは仕方がない。

克右に額をよせ、夕鈴はヒソヒソと話しかけた。

「……あの。何度も辻馬車を乗り換えたりして。
ずいぶん用心深いんですね」

「まあ、なあ」

「さっきの宿屋さんで、何か受け取ってました?」

「ああ……うん。そうだな。
土産物を一つ」

なぜか克右は言葉を濁した。

「土産物って、それ。
浩大からの―――連絡、でしょ?」

夕鈴は思い切って言ってみた。

「…どうっていうことのない土産ですよ」
克右は懐のそれを手で押さえると、ことさらに明るく言って見せる。

「浩大からの―――でしょ?」

「―――ええ」
克右は仕方なく、認めた。

「何て…?
浩大はどうしたの? どこにいるの」

「さあ、そいつは分からんなぁ」

「じゃあ、どうしてそんなものを?
何かの連絡手段じゃないんですか?」
夕鈴の矢継ぎ早な質問を受け克右は返答に詰まった。

「教えてください?」

夕鈴は、強い口調で望んだ。

「うーん」

「浩大はなんて? 
……私には、言えないこと?」

「できることなら。教えたいとは思わんね…
実のところ」

「克右さん。
私は自分の足で立って、
自分の目で見て
自分の耳で聞きたいんです…。
もう隠し事はしないでください。
どんなことであっても
何事も、己の目で見て理解し、
判断すべきと―――私はあの方に教わったんです」

「……そうですよ、ね―――」
克右はため息をついた。
ついに観念して、小さな紙包みをあけた。

「旅先で夫婦がちょっと買うようなもんで。特に珍しいもんじゃあないでしょう」

それはどこにでもあるような小さな土産物の魔よけの壁掛けで、それ自体はどうというものでもなかった。

「それだけじゃないでしょ?」

克右はもうこれ以上抵抗はしなかった。
結び紐の房の中に、細く巻いた薄い紙が入っていて、克右は大きな手で器用にそれを取り出し、広げる。

「三日後、例の場所で落ち合えなければ、気にせず先に戻れ。
あの方は薬の力で己の中の記憶を消した。
彼女の姿形はもちろん、存在すら認識できない。
すべてを失った」

夕鈴は言葉を失った。

しばらくたってようやく声を絞り出す。

「……これって
どういう、意味ですか?」

「さあなあ。書いてある通り…
細かいことは、オレにも分からん」


「―――すべてを失った?」

夕鈴は青ざめ、カタカタと震えた。


―――忘れてしまえ…

そういったあの人が
一番傷ついた目をしていた。

私を突き放したくせに、
優しく私の涙を唇で拭った


「……なあ、娘さん」
思い切ったように克右は夕鈴に声をかけた。

「は?」
克右はすぐに視線をはずし、馬車の中で自分の足元をじっと見つめていた。
馬車の中は狭く、向かい合わせの席は思った以上に近い。


「この旅を無事終えることができたら
―――」

「はい?」

「嫁に、来ないか?」

「―――え?」
突如突拍子もないことを言われた夕鈴は、一瞬頭が空白になった。

「ま、なんつーか。
参戦してみよっかと」

克右はニカっと笑った。

「じょ、冗談はよしてくださいっ、こんなときに―――!!」
夕鈴は体から火が噴くほどの思いで肩を震わせた。

「こんなときだから、さ―――
ナンパしてみよっかと。
おっと?
オレ達、旅の夫婦だったか…そっかそっか
ナンパする必要なかったな」

カラカラと克右は笑った。

「こ、克右さんっ
克右さんは大人だから!
そういうタチの悪い冗談、こんな時にスラスラ出てくるんですね
…冗談か本気なのかわかんなくて
一瞬、焦りました!」

「…まあ、娘さん、元気だしてくれや。
まあ、そうだな。
また、いつか。
その気になったら、ホンキにしてもらって構わん」

視線をはずした克右の横顔を、夕鈴は穴が開くほど見つめた。

(―――え?)

夕鈴は狭い馬車の中で、ぐるぐると目が回る思いだった。


*

忘却の岸辺(11)

お盆を故郷で過ごされた皆様も
東のお祭りをご堪能された皆様も
お元気ですか?


【ねつ造】

陛下は夕鈴を忘れ
浩大は幻となった言葉を胸に
克右は花の盾となる

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(11)
* * * * * * * * *

夜闇にまぎれ王の元を離れた浩大は
予てより克右と約束していた手段で連絡を取ることにした。

すぐに夕鈴や克右の元に合流せず、連絡を取ることを選択したのは、
本能的に『今戻ればヤバい』と察知したから。

背後から嫌な感じがする。
浩大は敏感だ。

浩大は目立たぬ町人の格好で用心深く人に紛れた。
ことさら目立たぬ体格、年齢が一見して分かりにくい童顔はこういうとき便利だ。
忍びのくせに顔を平気でさらす、と言われたらそれまでだが
むしろ隠さない方が自然、それほどに目立たぬということもある。

個人的技芸に秀でた浩大は単独行動を得意とするが
集団行動が嫌いというわけではない。

ただし、それは組む相手によりけりで
軍部所属の克右は、忍びの浩大にとっては反りが合わない。

組織が違うから、やり方もお互い気に食わないのは仕方がない。
なにしろ、請け負うものがそもそも違うのだ。

だが、仲間として組むのは、正直面白くはない、と思いつつ
今回の「お妃ちゃんを守る」という仕事に関しては
仲間がいることは頼もしく
それが腕の立つ軍人であればなおさらだ。

あれだけ内外に敵の多い人の唯一の弱点。
それを何としても手に入れんと躍起になっている輩が相手。
手段を選べず修羅場に突入することも覚悟していた。

依頼主である国王本人がその命を出したことを忘れ去っている現状、
宙ぶらりんになってしまった「彼女を守れ」という過去の命令のため自らの命を張るというのは浩大にとってすでに意地に近い。

「だけどさ。
あんときの言葉を。いまさら。
―――忘れちゃった、はいそうですか。
じゃ、あの子のことは放っておきます―――なーんて。
口が裂けても言えるわけねーじゃんかよ。
何があっても守り抜く…そんな律儀なオレだから。
ヘーカ、あんた。オレに頼んだんだろ?」

浩大は独り言ちた。

浩大は短い手紙をしたため、
そのあたりで手に入れた土産物の中に埋め込むと、克右と約束していた連絡手段通り、
駅伝を扱う宿場に届ける手はずを整えた。

つけられている。
それも複数。

「オレってば、有名人になったもんだよな―――」
浩大は鼻の下をこすった。

さて、大人しく見逃してくれるかどうか…。

浩大はニヤリと笑うと、闇にまぎれ駆け出した。

* * * * * * * * *

夕鈴は、荷馬車で克右と向き合い、息詰まっていた。

おもむろにかぶっていた外套をぐっと手でかき寄せ、顔をうずめた。

「……違う」
「は?」
向かいの席に座り、目を合わさぬようそっぽを向いていた克右が問い返す。

「違います、違いますよ。克右さん。
同情して、勢いで。
そんなのダメです。
『―――冗談だよ』って。いつもみたいに、
笑ってください!」

夕鈴は泣きそうな笑顔で、克右の外套を脱いだ。

違う。

私は、克右さんの優しさに甘えているんだ。

誰かの影に守られて、自分だけ良ければいいって―――
そうじゃなくて。

『私は、陛下の役に立ちたい』
って―――
まだ今でも
未練がましく思ってる。

『あなたの味方ですよ』っていいながら、
忘れられて、他人みたいに知らんぷりされて
一人前に傷ついてるなんて。

私は何の見返りを期待していたんだろう。


なんでもできる あの人に
何をして『あげる』なんて、偉そうなこと考えて

不器用なあの人に
優しくして欲しくて


あの人に振り向いてほしくて―――

未練がましくて―――

馬鹿で―――


(…克右さんの優しさに、甘える自分がいやだ。
そんな資格なんて、ない)

夕鈴は克右に借りた外套を脱ぐと、きちんとたたみ、克右の膝に乗せた。
伊達メガネをはずすと、克右をまっすぐに見つめた。

「克右さん。
わがままいってすみませんでした
―――私が勝手に自分のやりたいことして
みなさんを振り回して
みなさんに迷惑かけてたんですね?」

「……いや、そういうことは…。
どっちにしろ、あんたが何かに利用されるようなことがあれば
あの方にとって―――」
どう言ったもんか、と克右が苦慮しているのが夕鈴にはわかる。

「もう、私は妃じゃないです」

もともと、バイト妃ですから。
そもそも妃なんかじゃなかったんですけどね。

小声で夕鈴は付け加えた。

「ああ、そうだな」


「あの方は、私のことを忘れたと」

「…」
克右は困った顔をした。

「忘れられたっていい。
私は忘れません―――」

そうキッパリ言いきると、
夕鈴はにっこり笑った。


その時、すぐそばでけたたましい叫び声があがった。
ガタンと馬車が大きく弾み、衝撃に思わず夕鈴は脇の荷物にしがみついた。

周囲から複数の蹄の音が聞こえ、馬車の馬の足並みが急に荒立った。
馬は狂ったように暴れ出し、夕鈴たちの乗っていた荷馬車は右へ左へと大きくかしいだ。

「きゃっ!?」
慌てて克右が夕鈴に覆いかぶさる。

暴走する馬は気が狂ったようにいななく。
馬車はそのままガタガタと跳ねるように大きく街道を外れ
ひっくり返りそうになりながら側溝の段差をガクンと乗り越えるのが分かった。

荷馬車は大きく傾き、克右の大きな体で庇われながらも夕鈴は体が斜めに滑るのを感じ
馬車はようやく止まった。

「くそっ!」
克右は夕鈴を守るので精いっぱいで、チッと舌を鳴らした。
「―――」

バサリと馬車の幌が乱暴に捲られ、
二人は白昼にさらされる。

「荷物は―――女、か。
おい、お前。
顔をみせろ―――」

数人の騎馬の男たちが取り囲んでいた。
覆面をし、武器を手にした黒っぽい服装の男たちは、一見してマトモな者たちではなかった。

克右は腰の刀に手を伸ばしていたが、多勢に無勢。
四方を敵に囲まれ、夕鈴をかばう克右は形勢的には不利であった。

夕鈴はすでに顔をさらしており、逃げも隠れもしなかった。

暴漢のカシラと思しき人物が柳葉刀の刀尖を克右の喉元に突き付け近寄った。
「おい、その女を寄越せ」
克右は恐れる風もみせず、その刀尖を指でチョイと押してどけた。

暴漢らに取り巻かれたこの期に及んで、
一切おびえるそぶりも見せず、
カシラの顔を睨みながら平然と答えた。

「すまんが―――それはできない相談だ。
大切な嫁さんなんでね」

「なっ!?」
夕鈴は克右の人を小ばかにした言葉に一人反応し、真っ赤になった。
(…って、ああ。そういう設定、だったかしら)と後から思いだすのだが。

「―――ほう、肝の座った男だ」
カシラはズイと一歩詰め寄る。

克右は夕鈴を押し下げ間合いを保つと、腰の刀を手にした。

「…ヤル気か?
五対一。どう考えても、貴様に勝ち目はないぞ?」

「勝ち目があろうとなかろうと―――」
克右は刀を振るった。
「やらなきゃならん時は、あるさ!」
克右はその大きな図体に見合わぬ素早い動きで夕鈴を荷馬車の床に押しつけるように伏せさせ、刀を振るってカシラに飛びかかった。

カシラの腕にツツウと赤い筋が走る。
ひるむ間もなく第二波、第三波の攻撃を繰り出す。

克右の鬼気迫る形相は他を圧し
そのあまりの腕前に周りの者たちは気勢をそがれる。

ガタガタと大勢を崩し尻餅をついたカシラは、手をこまねき取り囲む手下にハッパをかけた。
「男をやれ!
女には傷をつけるな―――!」

「…なあるほど」
克右はフン、と鼻を鳴らすと
「やっぱり…そっちの筋の―――」

「黙れ!」

克右は片手に刀を構え血走る眼で対峙した。



*

忘却の岸辺(12)

痛くて辛いお話に、お付き合いいただき恐縮ですが。
やっぱり今回も痛くて辛いお話なのです。
どうか皆様は、元気で健康的にお過ごしくださいませ。


【ねつ造】【痛い痛い】
※陛下の過去の話をねつ造しています。
直接的な暴力シーンはありませんが、非常に血なまぐさいお話です。
特に浩大が盛大に流血していますので苦手な方はご注意ください。

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(12)
* * * * * * * * *

暗闇の淵の中をゆるゆると意識が登ってきた。
それとともに指先の激痛が襲ってくる。
(……チっ。何枚剥がされたんだっけ?)

鼻先にタラリと滴った液体がカサカサの唇を湿らせた。
ペロリと舐めれば塩っぱく鉄臭い、独特の味がする。

(あーあ。眼が覚めちまった)

浩大は混濁する意識の底から這いあがる。

指先だけでなく本格的に体中から一斉に激痛が湧きあがった。
重たい身体に力を入れ、首を動かそうとすると、あちこちが軋むように痛む。

「目が覚めたか?」

聴き慣れた声に、浩大はスンと鼻を鳴らし返答した。

「あんたが看病とか――ずいぶんとゴーカな待遇だね、今度は」
浩大は乾いた声でククッと笑い、ゴフッとむせた。
しばらくゲフゲフと辛そうな咳をし、「いちちっ」と文句を言いながら気管に詰まった痰を吐いた。
胸が大きく上下し、ようやく呼吸が整う。

黎翔は顔色一つ変えず浩大を見下ろしていた。

「…お前としたものが。ずいぶんと甚振られたものだな」

「早めに意識を失った方が上等だろ?
口を割れば即、お迎えだし。
……口を割らなきゃ、まだ次がある」

浩大に命があるということは、敵に情報を与えていないということだ。
黎翔は目を細くし憂いを含んだ唇の片端を吊り上げる。

目の前の浩大はボロボロだった。

浩大は敵の隠密に捕らえられ拷問を受けた。
それは殺すためというより、彼が知り得た情報を、なんとしても口を割らせるため、最大限の苦痛を与える類のものだったようだ。

「お前が持っている情報は――、
それほどに魅力的なものだったのだな」

単独行動していたとはいえ、浩大を捕縛できる力量の隠密らを抱えているという時点で、かなり大きなバックが付いていると考えられる。
大貴族か――人を殺めることを生業とする腕の良い輩を雇い囲えるだけの財力のあるもの。

浩大を助け出し取り戻したのは黎翔付きの隠密だった。
黎翔が失った自分の記憶の鍵を握る浩大に追っ手を掛けてたのが逆に幸いした。
浩大救出のために大勢が血を流し、手加減もできず敵は皆、息絶えた。

「あんたも訊きたいんだろ?
――おんなじことを」

確かに、黎翔こそが、
浩大を責め立て拷問を加えてでも、吐かせたかったのだ――。

一旦は冷静さを装い、見逃した。
だがどうしても湧き上がる焦燥感に耐えられなくなった。
――だから、追っ手をかけた。

浩大が真夜中に訪れて以降
不整合な自分の記憶について
イライラともどかしい思いに黎翔は炙られ続けていた。

私の失ったものは何か
浩大は私の知らない何を知っているのか

「相変わらず。
血なまぐさい業を置き去りには出来ぬのだな
私は――」

浩大。
目の前にして思う。

すさまじい拷問を受け、それでも口を割らなかったお前は
何に忠誠を立てた――?

過去の私か。
それとも
私の失った記憶を守るため?

だとすれば
唯一の主たる私にすら渡そうとしないお前は、有能な守り人だ。

私はそんなお前を信じたのだろう。
失う前の私は、そうしたのだ。

「……」
黎翔は長い間沈黙した。

浩大はお岩さんのように腫れた片目を指で触れ、瞼を開けて目が見えることを確認する。
爪をはがされ腫れ上がった指先はそれでもまだ肌の感触を伝えた。
「オレで済むなら、まだいい――」
浩大はペッと口の中の泡にまみれた固いものを吐きだす。

「――行ってやんないと」
寝台から上半身を起こした浩大は黎翔を真正面から見返す。

「私は、……何を失った?
お前はそれほどまでして
なぜ行く?」

「――知りたい?」
浩大の腫れあがった不気味な顔を更に凶悪にゆがめた。

「……」

複雑な表情をしていたくせに
黎翔の瞳があまりに透き通って見えた。

浩大は、あの日、母の死を見送った少年の眼を思いだした。

今のあんたが。
以前のあんたとどう違うかなんて、わかんね。

だけどさ――
オレ。

やっぱり、
アンタのことも
あの子のことも
放っておけないのかもしんないな…。

浩大は、せっかく起こした上体を、もう一度力なく床に横たえた。
胸の上で腫れあがった血まみれの手を組むと
ジッと痛みをこらえるように目を閉じた。

「忘れたくて、忘れたくて――。
あんたが何度も悩んで、悩みぬいて。
あんたは、あの薬を飲んだんだ――」

「薬?」

「昔。むかーしのことだ。
あんたの母親が手に入れた、秘薬だよ」

「ははう…え?」

「忘れちまったか?

あんたとオレは、あの日、見ていた。
長い間病気のように伏し、痩せ衰えた舞姫様が。
……オレたちの目の前で。
商人にひそかに取り寄せさせたあの毒薬を。

いとおしげに指でさすり
すがるように見つめ
瓶のふたをあけ、口をつけ、半分を飲み干した。

毒はすぐに舞姫様の体をめぐってさ――
地獄だった。

…この世でこれほどの苦しみがあるものかと
オレ、あんな恐ろしい景色って見たことなかったんだわ――。

子どもだったあんたの前で。
苦しんで、
苦しみぬいて
のたうち回ったんだ。

国一番の美女とまで言われたあのひとが――

それから一か月、苦しんだあげく、
ようやく舞姫様は、一つだけ
ささやかな願いをかなえた。

たった一つの記憶を手放して。

毒に蝕まれ、
最期は衰弱して息を引き取ったよな…
そんなことまで…あんたは忘れちまったのかい?」

「母うえ…が…?」

「あんたは同じ穴のムジナだ」

あの人が忘れたかったことはなんだったのか。
そこまで浩大は口にできなかった。

あの時。
あの人は
失った。

――黎翔 という何もかもを。

我が子という
この世で何にも代えがたい、大切なものが

この世で一番大切で
一番愛しい
一番必要な存在が

彼女にとって
生きてゆけないほどの苦しみをもたらしていたから…。

あの人は、悲しみと、苦しみから逃れるため
手放した。

黎翔という、何もかもを。

目の前に居ても、見えない。
声を、聞かない。

文字としても
言葉としても
絵姿をみても、
見えていないふりをしていた、あの人。
涼しげに、透明な顔をして笑っていた。

――いや、あれは、見えない振りじゃない。

「黎翔」という情報の何もかもを失って、
認識していなかったのだ。

それはあたかも空気か水のように透けて
彼女の脳は「黎翔」という情報を認知できない廃人になったのだった…。


「母の無残な死の戒めに…と
残り半分の薬を
あんたは、持っていたんだよ。
あんたは
あんたの母親が選んだ道を
あれほど侮蔑し、恨み、後悔していたくせに。
同じようにアレを飲むことを選んだんだ――?」

浩大は目を開けた。

「――そう だった の か」
黎翔は難しい顔をしながら神妙に聞き入っていた。

「そんな風にしてさ。
死ぬ思いで選んだ手段で、必死になってようやく忘れたのに。
――今更じゃん?
なあ、ヘーカ。
あんた
本気で、それ、知りたいのかよ?」

浩大は、傍らの黎翔をにらみつけた。
浩大の燃えるような挑戦的な瞳を直視し、
黎翔は自問自答した。

知りたくない、といえば嘘になる。

以前の私が、そこまで思いつめ、
命を天秤にかけ、正常とはかけ離れた方法を選択してまで
忘れたかったものとは――何なのか

知りたい

だが知りたくない。

「知らないから、今あんたは楽に息ができるんだ」

「…あ?」

「あんたは、楽になれたんだよ。

大事すぎて
大事すぎて
切り捨てなきゃ
あんた、死ぬ以上に苦しみ続けたんだ――

それでも、知りたいのか?
――覚悟あんのかよ」

「覚、悟?」

「アンタ、生きる気があるかって
聞いてるんだ!」
浩大は怒鳴った。

「生き…る 気?」
半ば唖然とした表情で黎翔はその問いを復唱した。

「――だろ?
だって。
オレにはさ、あんた。
自分じゃ無難にやってるつもりかもしんねーけど。
全然、生きてる風に、見えねーんだもん
あんた
何のために生きてるんだ?」

「そう、だな――
今の私は
ただ死ぬまで
この世に在る体なのかもしれん」

黎翔はクククと自嘲的に笑い、
やがて肩を大きく震わせて笑った。

笑いが収まると、あたりの雰囲気は一転した。

浩大は背中にゾクリと走る冷気を感じ、
一瞬身を縮める。

紅い瞳は浩大を圧し
飢えきった狼陛下が顔をもたげた。

冷静かつ酷薄な表情で舌なめずりすると
短く鋭い命令が発せられた。


「聞かせろ――浩大」


*

オートマータ ~あるいは、機械仕掛けの恋人~

【パラドックス・パラレル】【むっちゃ呆】

すごくバカバカしい甘いお話が、無性に書きたかったんです。
雑食で消化能力の強いなんでも許せるお心の広い方のみ、よろしくお願い申し上げます。
呆れるとおもいますが。呆れてください。

* * * * * * * * * * * * *
オートマータ
~あるいは、機械仕掛けの恋人~
* * * * * * * * * * * * *

微かな声が聞こえた気がした。

「陛下、お散歩にいきませんか?」

一心不乱に働いていた黎翔は、
それに気づくとふと顔を上げる。

目の前には愛しい彼女がいて
机の向こうで
モジモジと肩をゆすぶり
とつとつと話しかけている。

「いまから、か――?」
食事や休憩の時間、でもなければ
仕事の切れ目というわけでもない。

普段目立たぬよう、差し障らぬよう、
必死に息を詰めている彼女だけに、
わざわざ今、なぜ彼女がそう誘っている理由が分からなかった。

私と目が合うと、
彼女はクルクルと嬉しそうにその場で回った。

いつも彼女は私の理解の範疇の外をいくから
きっと今回も、何か突飛なことで私を翻弄してくれるに違いない。

なにしろ彼女が大胆に私を誘うなど……そうそうないことなのだから。

そう思うと、なによりもこの機会を逃すのは惜しい。

「他でもない君に誘われて
断れるはずもないな」
黎翔はかりそめの妻を見つめ、ふっと頬を緩めた。

ところが彼女はするりと向きをかえ、
ウインウインと音を立て、滑るように移動を始めた。

「あ…、どこへいく」
三方を囲まれた隅を一直線にめざす。

「散歩…に誘ってくれたのだろ?」

「お仕事中です!」

なんだ?…彼女は何かに怒っている。

クルクルと変わる表情も彼女の魅力だが、その理解できないところまで含めて彼女の存在は愛おしい。

そしてついに隅っこの角にスボッと突っ込むと
腹立ちまぎれに
うぃんうぃんヴーーーーン
と微かな音を立てて体をゆすった…

「夕鈴!」

手をのばした――すると、その手をメガネの側近がガッチリと捕まえた。

「社長!」

ハッと黎翔は赤い瞳を見開いた。

「…社長。
遊びはほどほどにしてくださいよ?
アレはお試しキャンペーン中の短期レンタル品、なんですからね」

あいらしいお掃除ロボットを黎翔は目で追い続けた。

「社長、あまり困らせてはかわいそう、ですよ」
李順はハアとため息をついた。

翔は立ち上がると、夕鈴が向き合っていた角からそっと持ち上げ、向きをかえて放つ。
夕鈴はうれしそうに再び動き始める。

広い執務室は、秘書室とバリアフリーでつながっている。

「…あ、そっちは行っちゃダメだ――」

黎翔はいそいで机の下に置いていた、取り寄せたばかりの段ボールをあけ、
追加のバーチャルウォールを取り出し、隣の秘書室にもいけないように慎重にセットした。

「夕鈴。さあ。好きなだけ散歩していいよ」

黎翔が優しく声をかけると、夕鈴はさっそく嬉しそうに動き始め…たかと思えば、すっと充電器の方へ帰って行き、すとんと部屋の隅で動かなくなってしまった。


「そうか。
…君はしばらく、ゆっくり充電するといい――」

黎翔がさびしげに肩を落とすと、
となりで見守っていた李順もため息をついた。

静かにしているだけだが、
何かもの言いたげな表情がうっとうしく
黎翔はキッと向き直った。

「なにがそう気に入らんのだ ――李順」

李順の背中にゾクと冷気が走る。

「正直に申し上げますなら
…あなたのその気に入りすぎているところが」

「あはは。
そんなにしんぱいしなくてもいいよ。
…ただ私は、彼女がごく自然に接してくれるのが
可愛くて楽しくて嬉しいだけだ。
――そう思わなくなれば、
お前の望み通り
切り捨てるさ、今までどおりな」


「私は、最終的には社長の決定に従います。
――ですが意見は変わりません。

早く彼女をここから逃がしてやるのが
彼女のためです――!」

「ぜったい、ヤダ!
妻を、手放せと――?」

「妻じゃありませんしっ!
夕鈴とか名前までお付けになって――!

臨時の
しかも相手は、お掃除ロボット――」

「私にとっては可愛い妻だ―――。
みていて飽きない」

「ですが、家電製品は妻にはなれませんしっ!
いいかげん、ソレをお離しくださいっ!」

「やだっ!
夕鈴を野良にしろだなんて、李順は鬼畜か――?」

「野良ではなく!
秘書室や、その先の廊下まで、
夕鈴殿の掃除範囲にしてほしいと――私は申しているだけですっ!」



ふーーん。

「…だからさ。
あの二人、なんで
お掃除ロボットに名前まで付けて、
盛り上がってんの?」

「ヘーカが擬人化しちゃったからのう…
あの方は聡明にして冷静。誰よりも賢いが――
やんちゃなお方じゃ。
いくらあれがお気に召したとはいえ、
御掃除ロボットでは
お世継ぎはむつかしいのぉ。ふー。」

「じーちゃん、まじ
へーかと、お掃除ロボットCP、あり?」

「…まあ、面白いから
あり、にしとくか。
実害はないじゃろ」

付属する秘書室から二人の様子を覗きながら
のんびり浩大と老子はお茶をしていた。

*

甘い甘い話にしたかったのに…。
どこをどう間違えたのやら――?


オートマータ ~あるいは、機械仕掛けの恋人~2

あっちを連載中で、申し訳ないですが懲りずに。
短期集中で終えますから…。

【現代(たぶん)パラドックス・パラレル】


* * * * * * * * * * * * *
オートマータ
~あるいは、機械仕掛けの恋人~2
* * * * * * * * * * * * *

「……おや、その娘は?」
秘書室の横を通り過ぎた老子は、李順がこまごま指示を出している清掃婦に目を止めた。

「ああ、老子――ごらんの通り、清掃婦、です」

「ほう?」

「優秀な人材を確保するため常々『丸々一か月間のロングバケーション! 自由出社、ネットで楽々お仕事』が売りのわが社では、9月までヒラ社員は誰一人出社しません。
なのに社長が例のお掃除ロボットを社長室のごく一部の限ったところに縛り付け、他のエリアに使わせてくれないものですから…。仕方なく臨時で1か月間だけ、雇うことにしました」

社長の優秀な側近の李順は、眼鏡おさえて「…私もヒラになりたいものです」と小さく愚痴た。

「ああー、これじゃな?」

ひょいと取り出したそれは、円盤型の家電製品だ。

「あーーー! ル◎バっ!」
若い掃除婦は大きな声をあげた。

チョコチョコと老子のそばに駆け寄ると、鼻先を摺り寄せるようにじっと掃除機ロボットをキラキラとした瞳で見つめた。

「…ちょ、ちょっと見せていただいてもいいですかっ?!
わたし、この子、いちど間近で会いたかったんです…!!」
「――ん?」
(この掃除婦も、擬人化妄愛タイプかの…?)
老子は掃除機ロボットを差し出した。

「老子、それをどこへ持っていくつもりですか?」

「いや、ちょと…陛下が外出中のうちに、改良してやろうかと思って。
段差には弱いし、ブツかったり、ゴミを収容する容積が小さいしのう。インテリジェンス・テクノロジー部門、顧問として見過ごせん問題じゃ」

「…はあ、なるほど。――しかし、それ。レンタル品ですからね?」
「いいじゃろ、すこーしばかし、改造しても。
あれほど陛下がご執心なら買い取ってしまえ!」

「――へいか?」
掃除婦は、うっとりしながらル◎バをなでながら、聞き耳を立てた。
「ああ、この老子は、社長のことをお小さいころからご存じで、陛下と呼ぶのですよ」

「ところで、その娘っこは―――?」
老子が李順に向かって尋ねた。

「掃除婦として一か月お勤めいただく、汀 夕鈴どのです」

「夕鈴!」

夕鈴は、老子がなぜ驚くのか分からず、あっけにとられた。

「人材バンクにアクセスしたところ、3万人以上の中から人選をするのが面倒くさくてですね。
あの方が、あのようにお気に召しておられるものですから
つい該当する名前で検索してしまいましたよ」
「なるほど、のぉ」
老子はフムフムと笑った。

「このビルの最上階フロアに出入りする以上、外部に委託できませんしね。
それでは、夕鈴殿、だいたい説明は終わりましたが―――何か質問は?」

「…あのぉ」
「なんです?」
「本当に、あんなにお給料いっぱいいただいて、いいんですか?」

「ルールを守り、きちんと掃除していただければご提示通りお支払いします。
夏季休暇中の一か月間、下のフロアにほとんど社員が出入りすることはありません
が―――社長は別です。
大変お忙しくお仕事をされますので、決して邪魔しないように」

「はい」

「ここで見聞きしたことは一切外部に漏らさない、守秘義務を守れますか?」

「はい」

「とくに社長はたくさんの敵をお持ちの方です。何がうっかり弱点となるかもしれませんので、小さなことでも決して外部に漏らしてはなりません。もちろん、バイトを終えても…。一生、ですよ? そのための高賃金ですから」
「はい、決してここでのことはしゃべらないと誓います」

「何かうっかりとでも漏らせば、そのとき一族郎党…」
李順は思わず口を塞ぐ。

「……(み、みなごろし)!?」
夕鈴は青ざめた。

「社長とお会いする機会はそうそうないとおもいますが。
万が一、社長と接触するようなことがあったら
―――社長のおっしゃること、されることは絶対、です。
あの方は大変スケールの大きいかたで
時折一般人には理解しがたい行動をとる場合がありますが
全てを受け入れなさい。
決して逆らってはなりません。
ちなみに…社長に逆らって命を落とした人の話、聞きたいですか―――?」

李順は真顔だった。
そのうえメガネが青白くきらりと光る。
夕鈴はル◆バを抱きしめ、青ざめた。

この会社は恐ろしいほど巨大で、
その若き総帥の威光は遠く海外にまでおよび、
冷酷非情の狼陛下と呼ばれる総帥は全世界から怖れらるほどであった。
――眼光で人がバタバタ倒れたとか――数々の逸話を、夕鈴ですら耳にしたことがある。

コクコクと肯く。

「いえ。お伺いしなくて結構です。よく分かりました」

「宜しい。
では、あちらの机で、契約書にサインを」

夕鈴はサインを、といわれ抱きしめていたル★バを見つめ、残念そうに老子に差し出した。

「同じ職場なら、また会えますね。
この子と遊んでもいいですか?」

「陛下のいないときなら、こっそりと、な――★」
老子はバチン、とウインクをした。

* * * * * * * * * * * * *

「――で、なんだこれは。
李順?」

黎翔は、目の前をうごきまわる物体を指さした。

「――例の、掃除ロボット、ですが?」
李順はくいっと眼鏡を指で押し戻した。

黎翔はじっとみつめた。

すーっと動き、どこに行くのかと思えばほうきでさっさと掃き、
時折くるくると回って見せると次へとのろのろ動き始める。

「そういわれてみると…確かに。
かなり見た目は変わっているが
夕鈴の動きをしているな―――」


(どこをどう改造したら、こうなると?
…また、それをいとも普通に受け止める社長も)
李順は苦笑をした。

「インテリジェンス・テクノロジー部門の張顧問が、改良をしてくださったのですが―――お気に召しませんか?」

部屋の隅に居た老子が、報告を加えた。
「両手両足をつけ二足歩行を制御して段差に強くなったし、掃く、拭く、ハタく、片付ける、なんでも可能になったぞ!
それからセンサーを高い位置に設けてのう、床のみならず高い位置も立体的に掃除ができるようになったんじゃ。
さらに、特筆すべきは、塵取りじゃ!
今まですぐ目詰まりしていたゴミ集積タンクの問題はな、外部に移行することで目詰まりなく長時間働けるようになったしのう。
どうじゃ、何も言うことはないじゃろ!」
と満足げに語った。

「――高性能になったというのなら、歓迎すべき、か?」

李順は勝手に改造したことについて、怒りをこうむるかそれとも、と
少々ビクビクしながら黎翔の様子を注意深く見守っていたが、
どうやら受け入れられたようなので、良しとした。

(だが、この風貌は―――)
李順は冷や汗を流した。

(……掃除婦として雇った夕鈴どのとうり二つではありませんかっ!?)

老子は熱弁を振るい続けた。
「次の商品企画にぜひ盛り込みたいと思ってた技術を駆使してみたぞい。
スリーサイズは上から78・56・82、軽量高剛性の内骨格を採用し、
わが社のインテリジェンス・テクノロジーの粋を極めた学習型コンピューター制御で、経験値をつむほど賢くなるんじゃ!
手触りはあくまで柔らかく、環境に溶け込む自然な風貌を特徴としておる!
どうじゃ! これほどの掃除ロボットはあるまい!」
「なるほど」
黎翔は報告の間、もう一方で仕事に取り掛かっていたが、何かチカチカするものに気が付き、はっと顔をあげた。
「…あ?」

黎翔が指摘する。
「何か、頭のあたりが、ピカピカ赤く光ってるが――」

「ああ、それは電池切れになる前のサインですじゃ」

夕鈴と呼ばれる掃除機ロボットの頭には、兎の耳のように結い上げた髷がついていて、そのあたりが赤いLEDでピカピカ点滅したのだ。

「軽量化のために、バッテリーが小さいので、充電は頻繁になりますがのう」

スルスルとロボット夕鈴は黎翔の側まで近づく。
黎翔が息をつめて見守っていると、ロボット夕鈴は皮張りの椅子に座っている黎翔の膝の上にストン、と載ってきた。

「これは?!」

「今までの充電のホームベースでは少々形状があわなくなったのでな、
非接触型の充電ホームベースをその椅子に仕込みましたじゃ」

「…なるほど」

黎翔は夕鈴を膝にのせて、なんとなく嬉しそうにしている。

李順が突っ込みをいれた。
「老子。このまま、どれくらいで充電完了するんですか?
これでは社長のお仕事の邪魔になってしまいますよ?」

「おおこれは。
非接触型の充電は、クレードルに乗せておくだけで充電できるという、誠に便利な方法じゃが、
いかんせん従来の接触型に比べると少々お時間がかかりますので―――」

「老子、接触型とやらはできないんですか?」

「一応、端子は設置してるのじゃが―――」

「それは?」

老子は極めて真面目に答えた。
「くちもと、じゃ♪」

「はぁ?」
李順は素っ頓狂な声を上げる。

「ブチュっとやれば、一発充電完了じゃよ!
ふぉほほほほ」

黎翔は真面目な顔で二人のやりとりを聞いていたが、
「なるほど。そういう方法もあるのか」
といいながら膝の上の掃除ロボットを見下ろした。

(前の円盤形もかわいかったが…。こんどもまたなんとも愛らしいな…)

黎翔はくい、っとロボット夕鈴の顎を捕らえると、チュッと口づけをした。

するとロボット夕鈴は顔を真っ赤にして、兎耳の髪がミドリ色のランプに変わった。

「お、充電完了、ですじゃ!」

夕鈴はすっと立ち上がると、また次のチリを求めて部屋を移動するのだった。
その様子を見守りながら、李順は黎翔の耳にヒソと。

「――宜しいんですか? 社長」


「いいんじゃないか?
実害はない」

黎翔はすぐに執務モードに切り替わり、机の上の書類をさばいている。

「いいじゃろ」
老子は満足げに笑った。


*

忘却の岸辺(13)

失っても、見失わない夕鈴。
無くしたものを探して、旅に出る黎翔。

本当に大切なものは、目には見えない――by さん・でぐじゅぺり


【ねつ造】
※夕鈴は元気に暴れてます。陛下も無気力から脱出傾向。

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(13)
* * * * * * * * *

夕鈴は必死に馬の背にしがみついていた。
普段馬になんて乗ったことないから、あちこち痛み、辛いが
夕鈴にはそのように贅沢なことは言っていられなかった。

任州に滞在していた夕鈴たちの耳に隣州まで国王が来るという噂は届き、
一目見ようと視察がてら立ち寄るという寺まで覗きにいったのだが

夕鈴たちの目の前で、元妃そっくりの替え玉が引き出され
国王は妃の存在に気づかず、謀反者の成敗の際、一緒に手にかけてしまった。
民衆の目の前で起きた出来事は
多くのものは人々は狼陛下の恐ろしさを目の当たりにし、
また妃を探すことに躍起になっているその筋の者たちには
妃の容貌に関する余計な知識を仕入れさせることになった。


身辺警護についていた浩大は、夕鈴を克右に任せると言い残し姿を消し、
克右と夕鈴は宿を襲われ、身を隠しながら逃げている。

注意深く逃避行をする二人は隣町までの移動にようやく荷馬車に乗せてもらい落ち着くが
その荷馬車は賊に襲われ、手綱を握っていた馬主は不意を突かれ命を落とした。

克右の不意打ちの告白に動揺しながらも、夕鈴は自分の中に「誰かに嫁ぐ」という選択肢はなかった。

忘れられようと、忘れたくない。
それは人がどう、ではなく、自分の覚悟なのだ。

忘れたくないのだから、他はない。
それよりも、周りの人たちを危険に陥れているのは、自分という存在に他ならなかったし
今ある目の前のことに対して、必死に対応してゆくことが先だった。

克右が背で夕鈴をかばい、単身で五人に立ち向かったとき
夕鈴はただ守られるだけでいていいわけがない、私にできることは――とすぐさま頭を巡らせた。

荷馬車から転がり落ちた台の影に、押し付けられるように伏せさせられた夕鈴は
必死に手探りであたりをかき回す。
手ごろな木箱があった。ツボでも入っているのだろうか、かなり重たい。
夕鈴は構わず立ち上がると、よっこらしょと重たい木箱を持ち上げた。

賊のカシラと、馬に乗った手下の二人と対峙していた克右はぎょっとした。

目の端に、頭上高々と重たそうな木箱を持ち上げ仁王立ちしている夕鈴の姿をみて思わず
「おい、伏せて――!」と克右は叫んだがその時にはすでに遅く、
夕鈴は克右の方めがけて、思いっきりそれを投げつけた。

木箱は克右の左側にいたカシラに見事命中し、ガツン、ガチャンと音がして地面に落ちて箱が割れた。
昏倒したカシラを助け起こそうともう一人が馬から飛び降り、駆け寄った。
夕鈴の投げた木箱の中には油ツボが入っていたらしい。
木箱は当たった衝撃でバラバラに壊れ、中のツボが割れてあたり一面油が飛び散り、助けに入った男は油に足をとられて滑った。

「おっ、おい…! …やってくれるな」
ニヤリと笑いながら克右はすばやく懐に手をいれると、火打石を取り出す。
横に飛びずさりながら手際よく火花を起こし、火種を移した一つまみの綿花をポンと投げると、ボッと音をたてて炎が回った。

荷馬車と賊の間には炎の壁ができ、五人の男たちがひるみ、どう仕掛けようかと考えあぐねているとき、夕鈴は敵のカシラが乗ってきていた馬の手綱を握っていた。

「克右さんっ! 逃げましょう!」
克右はもう一人の賊の乗っていた馬を素早く捕まえ振り向く。
腰まで裾をめくりあげたズボン姿の夕鈴が、鐙に足をかけ自力で必死に馬によじ登っていた。

「やるな」
「…だいぶこの間の旅行で乗り降りだけは、なんとか――」

「よし!」
二人は馬に乗って駆け出した――。


カシラの馬は足の速い賢い馬で、夕鈴は素人ながらただ乗っているだけで克右の馬を追った。
夕鈴は手綱を持ち、舌をかまないように口を食いしばって馬の背に必死につかまるので精いっぱいだった。

「軍馬、だな、まるでこりゃ」
克右はつぶやいた。

並の野党が乗るような馬ではない。

「やはり――」
諜報活動の任についていた克右には、一つ思い当たるふしがあった…。

* * * * * * * * *

「――ご苦労。

分からないということが
だいたい、分かった――」

賢い王にすら「空白」そのものの存在を教える術はなく
もともと教師向きというわけでなく、
負傷中であちこち痛めつけられた浩大にとり
頭脳的労働はあまりに不向きで荷の重い役割だった。

「ま――。今はそんなもんで許してヨ
オレさ、あっちが心配だから。
そろそろ行きたいんだけど――」

「その体で、か?」
黎翔はピクリと眉を吊り上げた。

「あんたの命令、だろ?」

「忘れる前の、私の――だ」

「じゃ、いまのあんたは
反対すんのか?」

「――否。
おまえの好きにしろ」


* * * * * * * * *

「…で、なんであんたがついてくんだ?」

「私の好きにさせろ」

「…っち。あんたいつも
好き放題やってるじゃん――」

「浩大! ――少し口を慎みなさい」
隣に座っていた李順がいさめる。

浩大は口では憎まれ口をたたきながら、
包帯だらけの指で鼻の下をこすりながら、少し眉尻を垂らした。

「…あんただけじゃなくてさ。
なんでゾロゾロついてくんだよ
あんた大事な視察中じゃなかったのか?」

「…その先に用事ができた。

少し先に足を延ばす――
あくまで仕事だ」

「――とはいえ、かなり強引な」
李順はよほどやりくりが大変だったのだろう。
各種調整で奔走させられた殺伐とした表情が未だ抜けきっていない。

今回、黎翔は忍びではなく、公的なオプションとして、側近の李順、政務室の数名、身辺警護の兵らを率い、馬車に浩大を乗せて移動をしていた。

用事というのが、黎翔に届けられた書簡の内容に係わることだろうと浩大はうすうす感づいている。

「…とかいいながら。
万が一のプランとして、李順さんの頭脳にはちゃんと入ってたんでショ」
浩大は頭に手をあてて、目をつぶった。

「隠密のあなたが国王の馬車に乗って移動するなど、
まったく想定外でしたよ」
(仕事もせず、まったく――!)
李順は厭味ったらしく答えた。

「…怪我人だ。目をつぶってくれよ」
哀れっぽい声で浩大はわざとらしく弱々しいそぶりをしてみせた。

「王宮の悪巧みも
私の失せもの探しも
お前の使命も。
すべての運命は、この方角を指差した。
吉と出るか凶と出るか
――鍵となる旅になろう」

黎翔はつぶやいた。


馬車は任州に向かう。

その先には蓉州。
世継ぎ問題で揺れる王宮が真っ二つになって論議している「王弟」が住んでいる地だ――。

政務室の数名の中には、外交を得意とする氾大臣の名代として長男水月が。
そして今一方、双璧の柳大臣も黙ってはおるまいと次男の方淵を同行させた。

それは地方視察に同行させ、研鑽を積まさせるためという理由であったが
本来この顔触れからして、単なる地域視察に同行するには珍しい人選だった。

「予定にないとはいえ、この『突然の予定変更』はみな腹積もりしていたことだろう。
私がここまで来たのだ――。
王宮の連中は、その先に足を向けるはずだと内々ヤキモキしていたはずだ。
ふいと、旅先から足を延ばしたふりで弟を尋ねる――格好のタイミングだと。
その期待に少々応えてみてやろうという気になっただけだ。
ならばせいぜい、立派な舞台を仕立ててやらねばな――。
どんな役者が顔をそろえるか――きっと、面白い趣向を披露してくれるに違いない」

狼陛下は暗い目をして嗤った。



*

[日記]狼陛下の花嫁 第62話感想・ネタバレ注意

本日、8/22(金)早売りで手に入れました。
恒例のネタバレあらすじ&感想レポート。


2014年8月23日発売 月刊LaLa 10月号掲載「狼陛下の花嫁 第62話」の感想。
ネタバレ含みますので、コミックス派の方はご注意ください。

--

* * * * * * * * * *
【CAUTION】
ネタバレです。ご注意ください。
* * * * * * * * * *

個人的な読後の妄想・感想日記です。

お気に召さなければ申し訳ございません
どうかスルーしてください。

また、こちらのブログの閲覧に関しては、あらかじめ<サイト利用規約>をご了承いただいたものといたします。大変お手数ですが、上記のご確認のうえ、本サイトをお楽しみください。




私の妄想・妄執を書きとめた読書日記ということでご了承ください。
宜しければ、どうぞ。




第62話
表紙絵は、
蘭瑶さま、晏流公を左右に、
センターにはたきと桶を持った夕鈴。

煽り文句は
大人気!秘密の後宮ラブロマンス

元国王の臨時花嫁。
新しいバイト先は――!?

来月発売のLaLa11月号には
「光があたるとキラキラ輝く!」
狼陛下の花嫁 リフレクターチャームが付録です♪

あ、これは絶対欲しい――w

-------

今回は、一言で申しますと
「晏流公がかわいい」の回。
溺愛仲間でほのぼの。

以上――で終わると、えー?ですか?


そうですよね…。

ではもう少し書きとどめておきましょう…

* * * * * * * * * *

実のところ、前回のお話の中で
「王宮が晏流公を呼び寄せるかどうか、
で真っ二つ」
――というので
柳と氾、どっちがどっちかなー?と考えていました。

たぶん今回の号で話で分かるだろう、と
個人的に想像していたので
その答え合わせも楽しみの一つでした。

イメージ的には
柳が「呼び寄せろー 」
氾が「やめてー」

…が、順当っぽい。

でも、
柳大臣が、以前「正妃をとれ」と進言していたので
???…逆のパターンもあり得る?

(氾大臣は紅珠を正妃に据えたいから
ぜったい余計な王弟とか来てほしくなさそうだけど)

外交派の氾大臣のことなので
もしかしたら二枚舌で蘭瑶さま晏流公を懐柔し、
なんだかうまくやれる自信があって、
呼ぶことに賛成派なのかしら――?
などなど。

どちらのパターンもありそうで。


…それでは、答えあわせです。

やっぱり
柳賛成
氾反対
でしたの。

保守派の柳大臣が言いだしっぺだそうですが
王宮の中にはなにやらうごめく別の黒幕もいそうですね…

はたして、柳、氾、両大臣の思惑っていうのは
正直どのあたりなのかしら――?

ここら辺の謎解きは、まだまだ少しさきに取っておきましょう^^

* * * * * * * * * *

さて、今号。
ざっくりお話の流れ…

晏流公のお館に潜入中の夕鈴は
庭仕事の最中に晏流公と二度目の遭遇。

わざわざ夕花(夕鈴の偽名)を探して晏流公がひょっこりやってきて
夕花が王都出身と聞いたから、お話を聞けたら、と
その必死でいじらしい子犬チックな様子に、夕鈴は私でよろしければと返事するのだけど

すぐに蘭瑶さまが探しに登場。
呼びにくるですよ。

(今のヘーカの父君の)本物の元妃の迫力に
どこか怖さがあるようだと夕鈴は思う。

母としては、ちょっと蘭瑶さま過保護と思います。
一人っ子だから仕方ないのでしょうか…?
本当にわが子がかわいくて、なのか。

それとも、
政治的にこの子が重要なポジションにいるから、
なのか。

そのあたり、
シルエットで登場していた頃から
個人的には、少々うがった見方をしておりました。
正直、
『もうすこしエゲツナイお方なのかな?』と思っておりましたが、そうでもない描かれ方。

屋根の上の浩大は『毒花』だと断言してるんですけど…
お妃さまとして寵愛を受けたお方ですもの。
ひとクセ、ふたクセあるのは、もはや当たり前――?

* * * * * * * * * *

一方、王都では出仕拒否中の水月の屋敷に方淵が訪れている。

まあ、あいかわらず水月さんってば
素敵な風邪の引き方(笑

方淵は方淵であいかわらず怒りまくってます。
(わざわざお見舞いにまで行って、この人
口では何のかんのいってツンデレですけど
ほんと、面倒見よいですよ)

方淵の来訪と聞き、紅珠が突入。

(来ました、紅珠♪
かわいい♪)

きましたー、二人の出会い。

涙ながらに方淵にお妃さまの行方の手がかりを求める。

まあ、早々にお兄様になだめられて、
奥に戻っちゃうんですけど

こんなことから方淵×紅珠のお話がスタートしたら、と
ファンとしては望んでやみません(ほほほ)

男同士二人になると、
相変わらずの肩の力抜けっぷりで←
のらりくらりとしている水月だが
二人の話をしていると
実はけっこうよーく見てはるんですね(なぜか京都弁)。
クセモノですのよ。水月さんは。
無駄な努力はしないけど…こういうところが氾大臣の御血筋っぽくて素敵です。

ちょいとばかりシリアス水月モードにはいって
漏らした内容は
王弟をうけいれようという進み方が早いのは
まるであらかじめ王宮内部で準備されていたかのようだと
方淵がこの件に裏があるとでも?と問えば
気のせいならよいがとにっこりいつもの水月スマイルに。

わざわざ見舞いにきてくれた同僚への土産話だと話を切り上げる。

どうしても出仕させたいなら
お妃さま情報を頼むよと
ちゃっかりしてるのが
水月さんですね~

水月さんにもっていかれそうだったんですが、
最後に方淵のターンがまいりました。←

次のコマの『見返り方淵』が
今回一番の見せどころかしら? そうよね!?←

いやべつに、むちゃくちゃ力はいってるわけじゃないんですけど。
さらっと目を引くです。
(あくまで個人的に)
このコマの方淵はかっこよい。
今月号の一コマに挙げたいくらいでした。

* * * * * * * * * *

さて
王宮の陛下と李順のターン。

どうやら、夕鈴に似た妃が2~3人出没したそうです(笑
お引き取り願ったそうですが。


下らないことを考えるものだ
彼女に似たものなど
いるはずもないのに

という陛下の言葉。

李順はその意味をかみしめて
逃がしたことは
正しいはずだ――と思いながら。

子犬陛下と夕鈴のほのぼのと笑い合う風景が交錯するんですね…

* * * * * * * * * *

夕鈴の方は
晏流公が剣の練習を一人でしているのを見かけ、
あんのじょう、よろぐらりドンで身を挺した夕鈴が泥だらけ
蘭瑶さまがかけつける。

ここら辺は予てより想像していた通りといったら何ですが
お約束展開だと思います。

苦手にも殊勝に取り組む晏流公の無邪気な瞳とひたむきさが、夕鈴の弟LOVE熱を…。

武に秀でた兄にあって、弟の自分が剣の一つも扱えないようでは失望されるのでは、という晏流公の言葉に涙を流す蘭瑶。
ついうっかり瑛風(晏流公の本名らしい?)と呼んじゃうほど
感極まるあたり…なんだかとっても純粋な母子だなあと思いまして。

(これで毒花なら、相当な演技派女優だと思ってしまうのでした。
ああ、心の汚れた大人っていやあね…。ほんと)

美しい親子の姿に夕鈴は大感激。

弟可愛い溺愛魂と気が盛り上がるのでした…

陛下の弟さん かわいいですよーーーと萌える夕鈴に

気の上から見守る隠密は
それ毒花ーってつぶやいているのでありました。

と、第62話は
こんなかんじでございましたよ。


どうか、皆様。
明日の発売をお楽しみに^^ノ“


* * * * * * * * * *


明後日8月24日はインテですの♪ 
狼陛下萌えの狩り人と化す予定であります…^m^

もし現地でお会いできましたら
はぐしてくださいませ♪


*

オートマータ ~あるいは、機械仕掛けの恋人~3

オフ活動、終わりました。
楽しかったです――。良い思い出になりました^^
今年度中はおそとに出られないので、ゲットしたお宝でホクホク萌をつなぎながら、おとなしくしますよ~。



【現代(たぶん)パラドックス・パラレル】
財界の狼陛下こと珀黎翔社長が愛する自動掃除機は、インテリジェンステクノロジー部門顧問の張老子のお節介でバイト娘の汀夕鈴とそっくりの姿に改造されて――?

* * * * * * * * * * * * *
オートマータ
~あるいは、機械仕掛けの恋人~3
* * * * * * * * * * * * *

夕鈴は曲げていた背中をのばした。
目の前の拭きあげたばかりのガラス仕切りはピカピカだった。

夕鈴は早朝2時間、最上階のフロアをきれいにするこの掃除バイトを始めて2週間になるが、長期夏季休業中ということで普段人とすれ違うことはほとんどない。

秘書室や廊下だけでは手持無沙汰で、フロアじゅう手上がり次第に磨き上げている。

朝早い時間帯のせいか、例の『狼陛下』とは一度もすれ違ったことはない。

「…今日も、みあたらないわね――」

夕鈴は、秘書室の仕切りのあたりであの子を探した。

円盤型の自動掃除機、る□ば。
夕鈴は、る○ばの動く様子が見たくてたまらなかったのだが、初日におじいさんが手にしているのと遭遇して以来、見かけていない。

夕鈴はチラチラと見える範囲で伺ったが、あの子は今日も見えなかった。

時々掃除をしている人影が見えるので、
この部屋から奥のエリアはきっと別の人が担当なのだろう。

「…調子悪いのかしら」

まるで人相手のように調子が気になり、
少々がっかりして肩を落とした夕鈴。

「ふぅ…また今度、会えたらいいなぁ。
――さっ! あとは。水をすてて」
ガラス磨きや拭き掃除に用いた汚れ水が入った重たいバケツを両手にそれぞれ一つずつ持ち上げて、夕鈴は歩き出した。

その時、エレベーターの方で微かにチン…と音がして
珍しく人の気配がしたので、夕鈴は振り返った。

ドアが開いて降りてきたのは小柄な老人で、
チマチマとこっちにむかって歩いてきた。

夕鈴は「あっ、おはようございます!」とあいさつをした。

「おお、お前さんかい。
――ああ、丁度良い!」
長老子は、ずんずんこちらの方に近づいてきた。

「…おい、バイト娘。
ちょっとの間、手伝ってくれんか?」

「え? 何でしょう」

「社長室の中も、しばらく掃除しとってくれんか?」

「えっと、あっちの奥はやらなくてよい、と李順さんから言われてまして。
それに、誰か別の人が担当してるんでしょ?」

「ええと、その別の者をしばらくわしが借りるんでな。その間ちょっぴりお前さんに代わりをしていて欲しいんじゃ」
老子はチラリと夕鈴を見上げた。

「はあ?」

「掃除婦がおらんあいだに、万が一あの方がお出でになられたら、非常に不機嫌になるからのう…」

「…あの方?」

「陛下じゃよ!」

「ああ! あのものっすご~く怖いといわれてる、狼陛下――社長さんですね?」

「恐ろしい方じゃでのう。ま、そういうことでの。
宜しく頼むわ」

「掃除婦が居ないだけで怒るんですか?…」
夕鈴は顔をしかめて、ブルッと震えた。

老人が「うむ」とうなずく。

「分かりました。じゃ、しばらく、そっちの奥のお掃除をしてるだけで、いいんですね?」

「たのんだぞい」

「じゃあ、この水捨ててきたら…」
夕鈴は手にしていた重たい2つのバケツを持ってよっこらしょ、と給湯室の奥の方へ歩き出した。

* * * * * * * * * * * * *
夕鈴がバケツにきれいな水を汲んで戻ってくると、もう長老子は階下に去ったあとで姿がなかった。
夕鈴はおずおずとしながら、今まで入ったことのない社長室の奥へと足を踏み入れた。

全面ガラス張りの眺めは壮観で、地上界がまるでミニチュアのようにパノラマで一望できた。

中は思った以上に広々としていて、
応接セットが小さく見えるほどだった。

――高そうなマホガニーの重厚なデスクと皮張りの椅子。

あの子はいないのかしら…と思ってきょろきょろしてみる。

「あ、この床の装置は…!」
夕鈴は秘書室とオープンフロアーでつながっている仕切り近くに設置されていたものを見つけて指さした。
「あれが噂のバーチャルウォールねっ!?」
夕鈴は少々エキサイトしながら叫んだ。

「あれがあるってことは、やっぱりる★ばはどこかに居るのね♪」
これは、今日こそ遭遇できるに違いない!
あまつさえ、働いている最中の愛らしい動きまでみれちゃったり…
と夕鈴は思わずグッと拳を握りしめた。

見回すとマホガニーのデスクの上に高性能のパソコンが置かれているだけで、サッパリとした執務室だ。
広すぎるフロアはあまりにも殺風景。

「これならあの子も気持ちよくお掃除できるわね~
…あ、だめだめ。まずは私、仕事しなきゃ!」

出会いへの期待に胸を膨らませながらも、夕鈴は職務に気持ちを切り替えた。

シンプルであまりムダなものもなく、掃除といってもやることもなさそうだったが夕鈴はとりあえずハタキをとりだすと、パタパタと高いところをはたきはじめた。

その時、部屋の奥の方で何か気配がした。
「!」
ドクン、と胸が高鳴る。

夕鈴はちらりと視線をめぐらす。

「――!?」
夕鈴は一瞬固まった。

社長室の奥に扉があり、そこから頭からタオルを被った黒髪の青年が出てきたのだ。
青年はガシガシと拭きながら無表情な顔をしてすたすたと歩いている。

(…いやいや、気を取り直して。ここは職場よ?
る◆ばちゃんに会えなかったからって…シャンとしなきゃ!

それにしても、あんなところにもお部屋があったんだ。 
…だれ? 李順さん以外の…秘書さん?)
と夕鈴は内心思った。

若い黒髪の青年は背が高く、端正な顔をしていた。
顔を洗ったばかりなのだろう。緩んだワイシャツの胸元が少しはだけていて夕鈴はドキンとした。

(社長さんの御用で、徹夜でもしたのかしら――。
奥に仮眠室でもあるのね、きっと)

「おはようございます。お疲れ様です」
夕鈴は離れた場所ではあったが、目を伏せながら挨拶をした。

すると、青年はキョトン、とした顔をしてこちらを見返した。

「――あ? ああ。
…おはよう」

青年は何やらブツブツとつぶやいていた。

(これまで、このような機能はなかったが――もしかして老子のやつ、また勝手に改造してコミュニケーション機能でも追加したのか?)

青年は革張りの椅子の方にすたすたと歩いてゆき、ストン、と座った。

今度は夕鈴が内心(えっ?)と思った。

(いくら社長さんが居ないとはいえ、大胆なヒトね――! 
まあ、私も社長椅子って、一回座ってみたいとは思うけど…)

夕鈴は苦笑した。

(…あっ、だめだめ!
もしこの人が秘書さんなら
私の仕事ぶりを李順さんに報告するわよね。
ちゃんとお仕事しなきゃ)

夕鈴は無言で掃除に集中した。

パタパタをハタキをかけ、ホコリのたまりそうなところを隅々まで拭きあげる。
リズムはすぐ戻ってきて、くるくるといつものように立ち働いた。

雑巾をバケツですすぎ、今度はどこを…と振り向きぎわ
思わず執務机の青年の様子が目に入った。

青年は両手を組んで、じっとこちらを見つめていて、一瞬二人の視線は交錯した。

ドキン!

夕鈴は思わずバケツの方に顔をそむけ、もう一度きれいに雑巾をすすぐ。
きれいになった雑巾を持って、机の上を拭こうと執務机のほうへ近づいた。

すると青年はスルリと夕鈴の腰をさらった。

腰をだかれて、ヒザのうえに座らされた夕鈴は目を白黒している。

「…充電」

「は?
じゅ――充電?」

夕鈴はあまりにも想定外のことが発生したため頭が沸騰した。
あわあわとパニックを起こし不審な動きをする彼女を、青年はギュッと抱きしめ
ぷっと吹き出した。

「――ん? どうした。
なんだ、こんな動き――見たことないや。
やはり、そろそろ充電か」

「充電、あの?」

「…しないと、動けなくなる」

何かにこの青年は疲れているのだろう。
心配そうに顔を覗き込まれる夕鈴は、なぜだか申し訳なくなった。

「えーと」

青年が何をいっているのか全く理解できない夕鈴がたじろいで固まっていると
青年はやおら両手で夕鈴の頬をつつみ
「急ぎのほうか」と問う。

「――え? あ、はい」

何が何だかわからずうろたえているうちに、
夕鈴は自分の唇に
ちゅっ
と、軽く何かが触れるのを感じた。

「――っ!?」

目の前には青年の端正な顔がドアップだった。
夕鈴はさーっと血の気が引き、蒼白になる。

「…あれ? かおが青い」
青年は夕鈴の頭のあたりをチロと見ながら不満げな顔をした。

いつもなら、充電完了とともに頬を赤らめ、兎のように結い上げた髪の髷がピカピカ緑色に光るのだが。

「接触不良か――?
充電完了ランプが光らない…」

そう言いながら、青年は更に念入りに、もう一度――

「ん、ん~~~っ!!!」

目の前の青年が夕鈴に覆いかぶさり、唇を重ねている。

夕鈴はあまりのことに、両手で相手を突き飛ばした。

夕鈴は耳まで真っ赤に染め、口元を手で押さえていた。
不意にボロボロと涙がこぼれた。

「――え?」

二人は至近距離で見つめ合い
青年も驚きのあまり、目を丸くした。

夕鈴は思わずバチンと青年の頬を叩いた。

「ひ、人の
ふぁ、ふぁ、ファーストキス…

…ば、…ばかぁ~~~~~~っ!!!!」

溢れだした涙は、もう止め処もなく

青年が「えっ!? あっ!? ゆーりんっ――?」
と叫んでいるうちに、夕鈴は脱兎のごとく走り去った――。


*

忘却の岸辺(14)

消えた妃を血眼で探す賊らに襲われ、かろうじて逃げ出した夕鈴と克右。
二人は浩大との約束の地をめざし…

【ねつ造】【ジビエ】
※夕鈴と克右が戴いてる食材は、他国ではごく普通の食材ですが現代日本人としては一般的に口にするものではありません。
お気に召さねばスルーでお願い申し上げます。


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(14)
* * * * * * * * *

――浩大と、なんとかして合流を。

約束の地、蓉州(ようしゅう)との州境にほど近い任州(じんしゅう)のある町をめざし、
夕鈴と克右は先を急いでいた。

軍部の克右にとって乗馬は慣れた移動手段であったが
夕鈴にとり馬での旅は思った以上に辛く、体のあちこちが痛い。
疲れがたまると、ついつい滅入って愚痴っぽくなる。

振り切った賊から奪った馬は
脚が速く体力もありよく訓練された良い馬だったし、
装備もしっかり鞍の横に結び付けられていた。

夕鈴と克右を襲ったのは、野党や山賊の類とは違う――と克右は感じていた。

貴族、それも軍部に属す上官クラス以上の…将軍を
顎で動かせるような大貴族。
そんな相手を敵に回している――。

* * * * * * * * *

その日二度目の休憩で馬から降りる。
夕鈴はさすがにホッとした表情でお尻をさすった。

任州は水の都ともいわれ、
大きな河川が州を横切り
豊かな実りを土地にもたらしていた。

克右は自分の馬と、夕鈴の乗っていた馬の手綱を引き、
馬たちを上手に土手から川岸まで誘導して降ろす。
馬はごくごくと水をのみ、その様子を見ていて思わず夕鈴が自分の喉の渇きを思い出した。

緊張に緊張をかさね、お腹がすいたことすら忘れていた。

「火をおこして食事にしましょう」
克右が手慣れた様子で簡単な炉を切り、食事の支度を始めた。

夕鈴は馬の上流で手と顔を洗いうがいをする。
馬は喉の渇きを満たすと、あたりの青々とした土手でのんびりと新鮮な草をはみだした。

「何度か危ない橋は渡ったが、
娘さんも度胸がついたな」

「そ――そうですか?」
夕鈴はあの日以来、克右とさりげなく距離を置くようになった。
克右は苦笑すると、ボコボコ凹んだ鍋を炉の上に乗せ、湯を沸かす。

気さくで優し気な一面のある克右は有能な軍人でもあったので、
心の内面を表に出さず、任務として黙々と働いた。

夕鈴にとって『自分のお守り』が彼の職業上の任務であることが、
少々心の重荷となっていた。

「……危ない橋だから、
浩大に会えて無事が分かったら。
あとは私一人でもいいですよ?」

夕鈴は膝を抱えてつぶやいた。

克右は聞こえなかったフリをして、敢えて返事をしなかった。

ガサリ、と草影で音がする。
(…敵?)
ハッと剣呑な表情で振り返ると、草陰に大きなカエルがいた。

「なんだ…カエルですよ。
克右さん、安心してください」

夕鈴がホッとした声を出すと、克右はすぐさま音を立てずに移動した。

あっという間にそのカエルを捕まえた。

克右は手にした大きなカエルを夕鈴に見せびらかした後
小さなナイフを取り出すと
夕鈴の目の前で器用にツルリと皮をむいた。

「一品おかずが増えましたぜ」

克右が笑うので、夕鈴も思わずつられて笑った。

こんな風に、カエルやらヘビやら虫でも
生きてゆくためには肉を食べなければ体が持たない。

大カエルは御馳走だ。
調味料も油もなく、ただ焼いただけだったけれど
カエルの足は美味しかった。

野山の動物も虫も美味しい食材だと夕鈴は知り
『命をいただいて生き延びさせてもらっている』と感じる。

陛下もこんなふうに、反乱軍と戦っていらしたときは
野山で空腹を満たされていたのだろうかと思いをはせた。

こんなふうに、素朴なものを口にして
兵士たちと舌鼓をうったのだろうか―――。


後宮ではそれはそれは綺麗で美味しい料理ばかり目にした。

夕鈴にとっては目が回るほど豪華な食事で、
下町にいたら一生口にも目にすらすることのない
山海の珍味が食べきれないほど
毎日目の前に山のように盛られていた。

特に宴のときはすごく。
――なのに陛下はそれを前に、ちっとも嬉しそうではなかった。

陛下は時折ごくまれに料理人をねぎらったり
贈られた珍味への礼を口にしたことはあるが
それはあくまで義務として必要のあるときに限られ、
彼の心の底から発せられた言葉ではなかった。

美味しいのか、まずいのか。
――何がお好きで何がお嫌いなのか。
陛下がどう感じていらっしゃるのか――
傍で見ていても、夕鈴にはさっぱり分からなかった。

そのくせ夕鈴の手をとり、口づけをするときは
うっとりとした甘い表情で…
「君がいてくれれば、幸せだ――」と。

まるで極上のお酒に酔っぱらったように
スラスラと極端な美辞麗句が次々と口から出てくるものだから、
夕鈴は赤面するしかなかった。


――『君がいてくれれば』
あの人はそう言ったのに。

夕鈴の脳裏によみがえる、後宮での日々。

あの人が何を好きなのか分かんないから。
陛下のために、必死にお好きなものを探した。

ようやく情報を聞きだして
陛下がお好きだとおっしゃる『甘いもの』『可愛いもの』を一生懸命作った。

李順さんの採点は厳しくて
「あますぎる」だの「形が少し悪い」だの
及第点が出ることはほとんどなかったけれど
へーかはいつだって極上の笑顔でとろけそうに喜んでくださった。

『君の作ってくれたものなら、なんでも美味しい』
――って。

ほんとうに嬉しそうで…あのお顔がみたくって。

そんなにお好きならって
いっぱい作って、陛下を驚かせようって――思っていたのに。

あの日、あの方は
私を抱きしめた。

疲れきった表情のあの人をなんとか元気づけたくて
私は尋ねた。

『お茶をいれましょうか? 陛下。
何か欲しいものはありますか?』

あなたは答えた。

『君がいてくれれば、他に何もいらない』

可愛いお菓子も豪華なお料理も。
何一つも口にしていないくせに
幸せそうに、笑った――。


君がいてくれれば、他には何も…って?
君がいてくれれば…って。
それ。
なんの冗談ですか?

うそつき!!


居ちゃだめだって、決めたのは――あなたでしょ?

「…側にいさせてくれなかったのは……!」

つい不満が口をついて出てしまった。

「――は?」

カエルの後脚の骨の周りをしゃぶり咥えていた克右は、
突然夕鈴が怒りにまかせて叫ぶのを、目を丸くして見つめていた。

しまった!と現実に引き戻った夕鈴は背筋を正した。

「えっと。…側にいたほうが良かったかい、お嬢さん?
そこじゃあ、鍋が遠いか?」

「あ、あのっ。料理じゃなくてっ!!」

夕鈴は顔を真っ赤にしながら憤慨している。
だがその目は克右を通り過ぎて、遠い空に向けらえていた。

「…あの方の、ことですかい?」
――克右はため息をついた。

「…っちっ 違っ!!」
慌てて彼女は打ち消したが、
その憤慨ぶりを見れば見るほど、
克右の言葉は的を射ているとしか思えなかった。

「…違わないですよ
そうでしょ?」

克右は炉に向かい、静かに熾火をつついた。

「ちがわ…ない、です。
そう。
――側に…いさせてくれなかったのは
へーかです」

一瞬表情が掻き曇ると、夕鈴の目には大粒の涙が浮かんだ。

ポタリと涙が落ちた。

「あんなに。
『君がいれば幸せだ』って――
どんな食べ物より
どんなお菓子より
幸せだって。

嬉しそうにしてたくせに。

…忘れちゃったって?」

夕鈴の目からぽろぽろと涙がこぼれ、足元の草地を湿らせた。

「――」

「記憶を消したって。
すべてを失ったって
――ソレ、何ですか?」

あの方を思って泣く彼女をどうにも慰めあぐね、
克右は距離をとったまま遠い眼で音を立てて爆ぜる炉の炎を見つめる。


「……あのお方は
今まで満たされることがなかったんでしょうな。

飢えを満たされ
それを再び奪われるのは――なによりも恐ろしいものだ」

ぽつりと克右は口にした。

二人はシン、と押し黙った。

「――さ!」
克右はおもむろに炉に水をさし、火を消すと立ち上がった。

「ハラが満ちたら、行きましょうや!」

克右はテキパキと片づけを始めた。
跡を付けられないよう痕跡を消す。

「……はい」

夕鈴もノロノロと立ち上がった。

――でも。まだ
わたしは浩大に会って
あの人のことをきちんと聞きたい。

それから――?

自己責任だなんて大ミエ切っておきながら
克右さんと浩大の二人を危険にさらして。
私一人では何一つできずに、守られてばかりで…

だけど。
馬に揺られて、お尻がどれだけ痺れようと
まだ前に行きたい。

この道の先に、何があるのか分からない。
分からなくても――


「どっちにしても。
こんなところで、泣いてるわけにはいかないんだわ!!」

ゴシゴシと涙を袖で吹くと
夕鈴はもう一度顔を洗うために川岸まで走って行った。


*

忘却の岸辺(15)

黎翔と浩大は、李順、補佐官、武官らとともに任州へと足を延ばし、
一方夕鈴と克右は、追っ手から身を隠し、任州をめざす逃避行を続ける――。

【ねつ造】【夕鈴受難※】【渋】
※ちょっと暴力シーンがあって痛いです。ご注意ください。
そして、ちょっと今回は渋い出演者が多いです…。


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(15)
* * * * * * * * *

夕鈴は自分の脆さを、涙を、恥じた。
出立前にこのみじめな顔を、洗い流してしまわなきゃ――

いそいで川岸を目指して駆け寄った。

馬が少し興奮していた

だが、その時の夕鈴は泣き顔を克右に見られた恥ずかしさで
一刻も早く冷えた川の水で涙を洗い流してしまいたいとそればかり考えていて
周囲の変化を気に留める余裕もなかった。

川岸には少々起伏があり、背の高い草が多い茂り足場が悪かった。

カサ、と目の端で生い茂る草が揺れたとき
夕鈴はまた大カエルでもいるのか、とチラと思ったものの
ゆるんだ足元を踏み外さないよう気を使っていて
周囲への注意力が足りなかった。

そのとき、背後で克右が大きな声を上げた。

「――おいっ! …」

声が聞こえた瞬間、
背後から大きな手がニュっと伸びてきて、腰から乱暴に網をかけられ、腕ごと体の自由を奪われた。
夕鈴はつんのめり「きゃあっ!?」と声を出す間もなく、頭から荒い麻袋をかぶせられた。

夕鈴は目の前が暗くなり、麻布の粗い隙間からかろうじて光のある方向が分かるだけだった。
叫ぼうとしたが、袋の上から首元に太い縄を巻き付けられ、ぎりぎりと締め上げられ声もでない。
恐怖と息のつまる恐ろしさに血が逆流した。

「叫べば、くびり殺すぞ!」
おぞましい脅しの声が聞こえた。

両側から荒々しく体を抱え上げられ
ひょいと体が傾き宙に浮いた。

「――やぁ や、やめて――!」
必死に声を絞り出し、ばたばたと足を激しく動かす。

体を網でぐるぐる巻かれ体の自由を奪われた夕鈴が、見えない相手に抵抗する術はたいして残っていなかった。
頑丈な相手は夕鈴が少々暴れようとビクともしなかった。

首を絞められた夕鈴は、刻一刻と血が溜まる。
パンパンに鼓膜が膨らみ今にも爆ぜそうなほどで、あまりの苦痛に夕鈴は慄いた。
腫れた血管で締め上げられ、耳の中で拍動の音がドンドンと鈍く響く。
まるで水の中で聞く音のように、どこかから克右の怒鳴り声が聞こえた気がした。

克右さん!?
――遠くて きこ、えな。――い

「や、やめ――」

苦しくてもがく。
だが、自由にならない。

今にも窒息した脳は破裂しそう。
夕鈴は新しい息を求めパクパクとあがくが
新鮮な空気は少しも体に入ってこなかった。

少し離れたところから、別の男の声がした。

「馬鹿野郎、締め上げすぎたら商品価値がなくなるぞ?
あの方は、無傷で連れて来いとおっしゃったんだっ!
殺しちまったら金にならんどころか――オレたちが殺される!
キサマ、その女の首に縄の痕なんかつけやがったら……」

「おっと、そりゃ、申し訳ない!」

ゴリゴリと耳元で音がしたら、急に体をひっくり返され、
驚いた夕鈴はかろうじて自由な足をしっちゃかめっちゃかに動かした。

「あばれるんじゃねえ!
ほどけねえじゃないか!」

無理やり首に巻き付けられた縄を引っ張られ、夕鈴は首が抜けるかと思った。

荒々しく体を扱われるのは我慢がならないが、それで窒息する苦しさから解放されるのなら――と夕鈴も必死で耐えた。

すると、首に巻き付けられていた縄が緩んだ。

今度は一気に解放され、狭い血管を我先にと血が下る――

一気に圧力が下がり、意識が薄らぐ。
必死にあえぎ新鮮な空気を求めるが、麻布が口に吸いついてうまく息がすえない。

もみくちゃにされて、ガクガクと世界が回る。
相手は自分をかかえて走ってるのか
それとも、馬――?

視界を奪われたまま眩暈と苦痛で頭が朦朧とし、
恐怖の嵐の中で夕鈴は気を失った――。


* * * * * * * * *

「陛下。いかがいたしましょう――?」
氾大臣がやわらかいほほえみを、部屋の最奥の座に座る主へ向けた。

「ご会談の日時は―――これにてよろしいでしょうな?
明日早朝、蓉州の使者がまいりますれば、
王弟君の処遇について、正式なお返事を――」

「柳大臣。そのように急かずとも。
まずは王弟陛下の人となりを知り、
話し合うことが重要でございましょう。
何事も急激な変化は避けるべき。
次の段階に至るかどうかは、まずはそれから考えることであり
一つ一つ手順を踏む必要が我々にはあるのでは?」

慇懃な会話が、珀黎翔の眼前で続けられていた。

「手順を一つ一つどころか…。
お前たちとここで合流するとは思ってもいなかったがな」

珀黎翔が、任州(じんしゅう)を訪れることはもともと旅程には組まれてはいなかった。
それにも拘わらず、なぜこの男たちはこの任州の州都閑積(かんせき)からさらに奥まった辺鄙なこの場所にいるのか――。

蓉州は大河で隔てられており、その川の岸辺に大きな町があった。

浩大が克右と落ち合う約束をしている蓉州行きの船着き場の町を目指した黎翔一向は、その少し上流の町に滞在していた。

というのも、国の重鎮たる大臣がそろってこの町に居る、という情報が途中でもたらされたからである。

浩大が『落ち合えなければ先に行け』と克右に指示した合流の日を明日に控え、
氾大臣、柳大臣と相対するとは思ってもいなかった。

約束の地に向かう途中、ということもあり、黎翔として内々の用事に足止めを食う形になっても両大臣とあいまみえるは致し方なかった。

今回の予定外の遠征は、非公式とはいえ側近の李順の他に選び抜かれた近衛の小隊、柳方淵ら補佐官ら公人を同行させている。
普段忍びで身軽な移動を好む黎翔がわざわざ大仰に振る舞った理由というのが、ほかならぬ密会談のセッティングの演出そのものであったから。

国王の視察の予定に入っていない『突然の予定変更』を、みな腹積もりしていたことだろうと黎翔はカマをかけ、その通り王宮のメンツは動き、黎翔の読み通り、いやそれ以上の大役者を舞台の上に引っ張り出した――。

黎翔はシナリオ通り舞台の幕が上がったことを知り、
二人の役者を昏い瞳で見つめ返す。

薄い唇を引き上げ、冷たい声で問いかける。

「お前たちがそろってこのような辺鄙な場所に?」

「それは、会談にもっとも都合の良い場所だからでございます――」
柳義広が答える。

「ほう、会談?」
黎翔はまるで初めて耳にしたかのように表情を変えずに両大臣を冷静に見つめていた。

「王弟殿下のご処遇をお話しあいになる、この国にとってたいそう重要な、話し合いにございます」
氾史晴が付け加えた。

「国の大事なれば、我々王の臣下としてはせ参じた次第」
柳大臣は本日三度目となる同じ文言を慇懃に述べた。

「私が視察先から、気まぐれに足を延ばすなど――誰が想像できるものだろうか?」

黎翔の冷たい口調を、涼やかな目元でいなす氾史晴。
「それはご聡明な陛下であれば。現状王宮を悩ませる問題に、誰よりも早く取り掛かられることとお察し申しあげ。
さすれば我々陛下の臣としてできうる限りの準備をさまざまに巡らせていただいておりました次第」

それに対し、柳義広はいつも通り苦虫をかみつぶしたような鉄面皮を張りつけたまま奏上する。

「蓉州の使者と会うには、任州のこの川のほとりの町がまさにうってつけ。
話がまとまり次第、直ちに王弟陛下と蘭瑶さまもお呼びいただけるよう、雨宣(うせん)にご両名にご待機願うべきかと」

柳の言葉に、氾は異を唱える。
「それは時期尚早――!
それではまるで、すでに王弟殿下を王宮へお迎えすると
決まったかのような口ぶりではありませんか!」

「実際、そうではありませんか。
後宮の花は枯れ果て、若き国王にはいまだ跡継ぎとなる御子もなし。
正当な王家の御血筋をお引きあそばした王弟殿下をお迎えする以外、
他に何か良い打開策でも――?」

柳大臣はつまらなそうに氾大臣を見遣った。

「ご正妃をお迎えになれば済むこと――いやむしろ。そちらが先の話では?」
氾はなにをいまさら、と面白がっているようだ。
その微笑をたたえた口元はあくまで柔らかいが、後に引く様子も一切なかった。

「先のばしにした結果が今ではないのか?
王弟殿下をお迎えし、その後ご正妃から嫡子が生まれれば
その方をお世継ぎとしてご指名なさるにそれに越したことはなく。
現状王弟殿下を王宮に呼び戻するは、いうなれば保険。
王弟殿下にも王都暮らしに慣れていただき、王のお力になるべくご勉学をしていただくことと、ご正妃の問題とは
何ら競合することではござらん」

「正妃問題と、王弟を王宮に呼び戻すは別の問題――とおっしゃるのか?
しかし王宮の日の当たる場所に王弟殿下を引き出せば、持つ力なき王弟を懐柔し己の権力の足掛かりにと目論む、良からぬ考えを持つ者も出てまいりましょうなぁ」
氾大臣は柔らかく笑った。

「なに、王弟を担ぐというのであれば、担いでみれば宜しかろう。
さすればいかなる思惑を誰が持っているのか、我々に各々の腹の内を見せてくれる良い機会となりましょうぞ」

珀黎翔はチロリと狸に視線を走らせた。

「…とは、この際、私に踊れ、と――?」

「王弟殿下の人となりを見定めるは、我らにとっては大切なこと――ただし。
その存在をどう利用しようとしている輩がいるか、知ることも
陛下にとってはまたとない益となりましょう?」

鉄面皮の柳義広は、いつものように、つまらなさそうに言ってのけた。

「お前たち、柳家と氾家は古くより根深い確執があると聞いていたが。
お前たちが反目するふりをしながら、
私まで躍らせようというのは
どういう風の吹き回しだ?」

ムスリとした柳義広を横目に、氾史晴はまるで冗談でも話しているようにハハハと軽い笑い声をたてた。


*

SS 踊る陛下

二次、三次。

陛下が踊る、という一言で派生したショート・サイドストーリー。

もうどこの国のどういう設定か分かりません。
…でもたぶん、淡い恋心ただよう夫婦未満恋人設定。←


【パラレル】【盆踊り】【微糖】【設定不詳?】

* * * * * * * *
踊る陛下
* * * * * * * *

ドドン、ドンと太鼓の音が聞こえる

「あの音は?」
ふと気にになって女官さんに尋ねた。
「ああ、今日は納涼の盆踊り大会ですから…」
「盆踊り?」
「ご安心下さいませ。
お妃様にも、素敵な浴衣を仕立ててご用意しておりますよ!」

そんな前ふりがあったから、陛下から突然のお誘いがあったときも、
ああ、そういう行事があるのか、と驚くこともなかった。

「今日これから、ちょっといい?
近所の盆踊り大会、覗いてみない?」

「陛下も、行かれるのですか?」

「退屈している妃を、喜ばせることができるのなら――」

そんなわけで、浴衣を着させられた。


かわいいピンクのウサギの柄がちりばめられている。
「陛下がわざわざお取り寄せなさった生地で仕立てさせたと伺っておりますよ」
「…そうなんですか」
髪もいつもよりすっきりまとめられて
一重の薄い浴衣は頼りなくて、ちょっと恥ずかしい。

「はい。大丈夫です」
背中の帯をポンとたたかれた。
シャラン…と鈴の音がして、覗き込まれた視線を感じた途端に
ゆるゆると影が近づく。
陛下が紺色の浴衣に身を包んで登場した。

「ここからは陛下とお二人で、ごゆっくり」
ニコニコする侍女さんたちの笑顔に見送られ、
「一緒に行こうか?」と陛下が手を差し出した。

私はおずおずと手を差し出すと、陛下はギュッと握り締める

「…!」
と思った途端、握り締めた手をするりと絡められた。

指先に神経が集中し、恥ずかしくて思わず赤面をしてしまう。

「よく…似合ってる。
暗いから、足元、気を付けてね?」

嬉しくて。
視線をはずした。

慣れない下駄がカラコロと鳴るから――

その音に合わせて指先がゆるゆる絡められても、
「暗くて見えないから、大丈夫」って
息をひそめて陛下に手を引かれるまま、ずっとその音を聞いていた。

暗い夜道をしばらく歩いてゆくと
ぼんやりと提灯の明りに照らし出された櫓が見えてきた。

四方に提灯張り巡らしたそれは、あたかも結界を張ったように、
そこはまるで特別な空間だった。

すでにやぐらを囲んで輪になって、人々は踊っていた。
「一緒に踊る?」
「いえいえ! 私、踊りよく分かんないですから…」
「一緒に見様見真似、やってればいいから、とにかく輪に入ろうよ」

曲と曲の合間に陛下に手を引っ張られた。

できませんてば、恥ずかしいですよ、と
散々抵抗したが、
大丈夫大丈夫、といなされ、無理やり輪の中に引っ張りだされた。

下手で申し訳ありません、と後ろの人に
「初めてだから、ごめんなさい――?」と、かるく会釈をすると
「どうぞ、お構いなく」と、にこっとされ
ええい、やってやろうじゃないの!という気にもなった。

「僕も初めてだけど、君と一緒なら楽しいや」
曲が始まった。
陛下が見様見真似で踊りだす。

長身で人目を引く容貌で
かつ、武芸に長けた陛下は、もはや立ってるだけで絵になる。
初めての曲だからといっても、軽く手を差し引きする姿形も様になっていて美しかった。

かたや私は泥臭くって「あれっ? えっ?」とアワアワしながら踊りにもならない。
陛下がプッと吹き出しながら、手を取って一緒に踊ってくれた。


手首をつかまれてドキン、とした。

私の後ろ、腰のあたりに陛下がすり寄るように密着し
「こんな、かんじだよ」と手を重ねる。

しばらく踊っていると、じわっと汗をかくのは、
下手とか上手とかいうよりも
陛下の薫りにクラクラしてしまったからで――。

少しテンポの速い踊りになると、周りの人は「それっ」とばかりに熱狂的に踊った。
太鼓の音が鳴りやむと、手ぬぐいとひんやり冷えた氷菓が配られた。

「疲れた――? ちょっと待っててね」
陛下はトコトコと配布の列に消えると、すぐ水色の氷菓を二本手にして戻ってきた。

「どこか、腰かけて食べる?」と手をひかれ広場の隅の方にいざなわれる。

提灯で照らし出された櫓の周りだけがぼんやりと光って
足元の影を揺らした。

「どうぞ」
陛下が差し出した氷菓は冷たくて甘かった。

二人で無言で櫓の明かりを眺めていた。

「…夕鈴の食べてる方のが、美味しそうだな?」

そういって、陛下が急に私の目の前ににゅっと顔をつきだした。

「そんなはずはありません。同じ味のハズです」

「そっかな。じゃあ、お味見させて」
陛下が食べていた氷菓を差し出すので、私も大事に舐めていた氷菓を陛下に向けた。

とたんに、ぱくん、と大きな口で半分以上かじった。

「ああ~~~! かじっちゃだめですっ!
せっかく舐めながら、綺麗に食べてたのに…」

「え? かじった方が美味しくない?」

「少しずつ大事に舐めて、長く楽しむのがだいご味でしょう?」

「そうなの?」

陛下が私の手の氷菓を舌で舐め上げたのを見て
私は暗闇の中で赤面してしまった。

「…なっ、舐めるのもダメですっ!」

「えー? じゃあボク、どうしたらいいの?」

「…大切に、食べてくださいっ!」

「大切にすればいいの?」


「はいっ!
大口あけてガッツいちゃ、ダメです!
もっと大切に、少しずつ…」


「…やっぱり君の方が甘いみたい」

暗闇のなかで陛下の瞳に提灯が映りこんで、万華鏡のようにきらめいた。

「そんなわけありませんよ、陛下のも、私のも
――んっ!?」





不意に、ふさがれたその言葉の先に

――陛下の方が、甘いって。


やっぱり思うのだけど――。



──────────────

かるく酔っぱらいな文章です

タイトルを間違えたようです。

「踊る陛下」というより
「踊らされる夕鈴」
それとも
「かじる陛下」か
「舐められる夕鈴」?――

この後どうなったかとか
あまり気になさいませんよう。

忘却の岸辺(16)

ご無沙汰いたしました
今日のお仕事終わりました~

ちまちま打ってたんですけど
なかなかアップするところまで…で(汗;


【ねつ造】【ネタバレ】【ブラック無糖】

重苦しくって昏い黎翔さまのターン。
すみません――。
コクを濃縮。

ああ、糖分が欲しくなってまいりました――


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(16)
* * * * * * * * *

任州と蓉州の国境を隔てる大河の上流の
荒々しい急流の渓谷に、この町はあった。

失った記憶の鍵をにぎる克右と合流の約束をしていた浩大の情報をもとに
国王、珀黎翔は視察先から任州へと足を延ばした。

折しも王弟を王都に呼び戻すかどうかで王宮は二派に分かれ争いがおきていた。

賛成している最大勢力の柳大臣、そして反対している氾大臣は
王が視察地から予定外の行動にでることを
――つまり、問題の核心である王弟問題と直接向き合うこと――を想定し、
先回りをして蓉州との州境のこの地を会談の場所として選んでいた。

またもし万が一国王が動かなければ、自分たちの行動によって水を向ける腹積もりであったに違いない。

なにしろ、会談のセッティングは隙なく整っていたのだから。

一方、国王の黎翔は、王弟の扱いをめぐる王宮の諍いを諫めるでも結論を出すそぶりも見せるでもなく静観していた。

なにがうごめき出すのか――

王宮の闇で
誰が、どのような謀略を張り巡らしているのか。

誰とだれが裏で繋がり、
浅はかな貴族にどのような口当たりの好い餌をバラ撒き煽動するのか。

それら、ありとあらゆる薄汚い技ーー

が、どのように暴露されるのやら…と
黎翔はむしろ楽しみにしていた。

それよりも今、
彼の心を占めているのは

この現状を憂いて自分が事前にとった『手段』のことについて。

こうなることを予測し、自分はなにか大切なものを手放した――。

そこがどうにも腑に落ちない。

黎翔は、自分を割り切った男だと思っていた。

物でも人でも、
何一つ自分は縛られるつもりはないし、
まして執着するなど。

いざというときには割りきれる
自信も覚悟もあるつもりだった。

自分が背負ってきたもの。

王の子、として
物心ついたときから
生まれついた場所を受け入れなければ始まらなかった。

正直なところ、
自分の身にも、生きることにも
執着はない。

そう
いつ死んでもよいとすら
黎翔は思っている。

しかしただ死ぬだけも間抜けすぎる。

生まれてきたからには、何か甲斐が欲しかった。

「楽しませてくれ」
投げやりなようだがそれを願った。

まだ子供で、無力であったころから、
黎翔はありとあらゆる敵の罠に囲まれていた。

――それがたとえ近しいものであっても。
相手が誰であっても、
どんなときでも。
『気を許す』ことは危険だった。

優しい笑顔と甘い言葉で自分に取り入り、
居心地よく懐まで忍び込む。
永遠に続くかのような安らぎの日常は、
ある日一気に瓦解するのだ。

実際、彼に取り入るものは
皆、例外なく敵だった。

力なき王の庶子に
下心なく近付く者は皆無だった。

騙されるのは、愚かだと…。

笑いながら毒を入れる者ばかりに囲まれていれば
『無条件に自分以外のものと心を通わす』など
この世にはあり得ないことだと、
幼い黎翔は諦め確信していた。

信頼は、唯一、契約によって生じる。

互いの命をささげ、
逃げ隠れもできないほど深いところで交わす約束だけが、相手と自分をこの世に縛る――。

身も心も命まるごとを預けられた以上、その見返りとして結果を残し、彼らを満たし応える責務を全うせねばならなかった。

有能な家臣の助力を得るために交わした契約によって、がんじがらめにこの世に縫い止められた今の自分の体は維持しなければならない。

王の子に生まれついた立場。
いつのまにか、自分の体は己だけのものではなくなっていた。
第一条件として、まずこの身を保たねば…生きていなければ話にならない。

――だからそのための鍛錬は欠かさず、抜け目なく生きる術は人並み以上に身に着けてきたと思う。


荒れた国を掃除する。
それは楽しかった。

権力を欲したことはないが
醜い争いに巻き込まれながらも、戦うことで自分がいる証を立てた喜びは小さくはなかった。

生き残ったその事実が、強く賢い者の証で
その力が彼を国の統治者に押し上げた。

強く武力に秀で、誰からも恐れられる王。

だが、黎翔個人としては
その脳力を自分以外の何かとの結び付きのために
発揮するつもりはさらさらなかった。

何かと深く情を結び、気を取られるつもりはない。

それは何度繰り返しても裏切られ続けたことで――正直、無駄なことだと黎翔は知っていた。

無駄な情は、判断を誤らせる。

彼を取り巻くすべて…血縁であろうと、命を狙う者ばかり――。

そんな中で生き抜いてきた、力なき子供が
やがて冷酷非情の狼陛下と呼ばれるに至った背景は、
情を切り捨てていたからこそ。

情に溺れなかった酷薄さに助けられ
今まで生き抜いてこられたにすぎない。

『楽しませてくれ――そうでなければ、切り捨てるまで』

黎翔は飢えていた。
生きる喜びの糧に…。


今も昔も、そんな自分は、変わらない。

だから
自分の心の領域に
誰かを許し
必要以上に情けに流された自分という存在があったという事実が
黎翔には信じられないことであった。

『そこまで私を変えたものは何なのだ――?』

必死の思いで捨て去ったものを
切望するなど、皮肉だ――。

浩大から話を聞いて以来、
以前の自分が禁忌を冒してまでも忘れ去ろうとした何かについて黎翔は考えていた。

忘れなければ生きてゆけないと自ら思いつめ
絶対に選ぶはずがないと思っていた手段
――亡き母が選択し、憎んでも憎み切れないほどの嫌悪を持っていたという
掟に背く方法――
に自分が踏み切った、というそのことが。

そこまでして忘れることを選んだ自分がいた、という事実。

今度は、それが何だったのか分からないことでイライラとしている。

その大切なものにまつわるすべて…。
見えない、聞こえない。

そんな不思議な現象が起きていることすら、自分は分からない。

真っ白に何もかも失った。
それこそが、記憶を失う前の自分が欲した『何か』であったはず。

いま、自分が仮にも王として、責務を全うするに遺憾ない状態でありながら。

――知りたい。
私は、何を失ったのだ?

自分が壊れ、死と渡りあう危険を冒しても、忘れたかったこととは、――何なのか。

* * * * * * * * *


「ああ、陛下。このようなところに――」
黎翔がめずらしく窓の外をボンヤリと見ている姿に気が付き、李順は声をかけた。

「さ、そろそろお支度を。今日は頭の痛い一日になりそうですよ」
李順はぼやいた。

「浩大は?」

「克右と落ち合う場所へと向かいました」

「…私は置いてきぼりか」

「この状況では仕方がないでしょう。…浩大には克右らをここに連れてくるよう伝えてありますから。どちらにせよあなたがお望みの通りとなりましょう」

「望み?」

「あなたは会いたいのでしょう?」

「会いたい…?」

「あなたが手放した……」

「いあ、李順。
――正確には、少し、違うな」

「違うのですか?」

「すまん。分からんのだ、私にも。
何を失ったのかすら、
いまだに何も分からない」

「…そうですか」

「だが、
知りたくてたまらんのだ。
以前の私が、そこまでした、という“もの”が――」

「…知ったところで、どうなるものでもないと。
そうはお思いになりませんか?
あなた自身が切り捨てた過去を
――今更、とは?」

「今の私には見えず、聞こえず。
…そんなものを、どうしろと?
一旦自ら手放し、捨てたものに追いすがるとは、まるで愚かの極みだな」

「…さあ。
聡明な陛下がお分かりにならないことでは――。
わたくしにもそれは分かりかねます」

「そうだな。以前の私なら、切り捨ててきた。
だが――割り切れないことにこれほど引かれるからこそ、今はただ。
素直に知りたい、と思うのだ」

「特殊な…秘薬の作用にございますから。
老子にも調べさせましたが、もとより博打のような…。
例の秘薬の効果は不確かすぎるうえ
幸運にも一度失った記憶を再び取り戻した例は過去にない、と――」

「承知している」

「見えなくなったものが、見えるようになったことも――
聞こえなくなったものが、聞こえるようになったという例も、
一つも、見つけることはできませんでした」

「そうか」

「あなたは、もうお忘れになったのです。
姿も、形も、言葉も」

「…そうらしい」

「あの日。
あなたはお見えにならなかった。
傍にあっても、分からなかった…」

李順は肩を震わせた。

――ああ、陛下。
あなたの判断は正しかったはずなのだ。

妃としての資質も条件も
何一つ持たぬ彼女を
見逃した。

これ以上の最善の策はないーー

なのに。

あなたは最も大切で
この世でたった一つのものを。

あなたへの天から与えられた恩恵
――幸せ、を。

手放しておしまいになったのでしょう…

おそらくは。


永遠に。







*

オートマータ ~あるいは、機械仕掛けの恋人~4

本を某書店にお求めくださった方、ありがとうございます。
すごくうれしいです。
イベント会場もとても敷居が高いですが、通販も…ですよね。
私もついこの間まではと○さん通販の存在は知っていても、恥ずかしくて注文なんてできない人間でした。
(自分の作品を置いていただくようになると、少し身近になって抵抗も徐々に薄らいでおりますが)
そこを乗り越えても「読んでみたい」と思っていただけたのなら、書き手としてこれほどの喜びはありません。
本当にありがとうございました。


【現代(たぶん)パラドックス・パラレル】【お年頃の黎翔さん】

財界の狼陛下こと珀黎翔社長が愛する自動掃除機ロボットの姿かたちは、バイト娘の汀夕鈴とそっくりに改造されていました。
そうとも知らず、ある日人間の夕鈴と入れ替わった時に遭遇した黎翔さんはそのあとちょっぴり、変です。

* * * * * * * * * * * * *
オートマータ
~あるいは、機械仕掛けの恋人~4
* * * * * * * * * * * * *

「…社長」
机で真面目に仕事をしていた黎翔は、李順の声にふと顔をあげた。

「本日のアメリカのデルタロイド社の会長とのご会食ですが。
わざわざアメリカよりご同行されたご令嬢が同席されると、先ほど…」

「断れ」
黎翔は有無を言わせず短く言い放った。

「しかし――大切な取引先の…」

「令嬢とやらのプライベートな取引に及ぶのなら、会談などまっぴらだ」

若くして財界のトップに君臨する独身の黎翔には、ひっきりなしに縁談が持ち込まれる。
その手の話題には一際敏感になっているが、李順としてもそろそろ相応の相手と黎翔にきちんと身を固めてもらいたい気持ちはある。

「この際ですから申し上げます。
社長、お見合いをされてはいかがですか?
デルタロイド社のご令嬢など、打ってつけではありませんか…!
家柄よく、美人で。経済専攻ハーバード大学のHBSでMBAを習得され知識教養においても文句ないお相手と存じます。
社長に意中の方でもいらっしゃるのなら別ですが、そろそろ本格的にご良縁があれば――」

「……」
黎翔は李順の言葉はまるで耳に入らないような顔で、広い部屋の隅に視線を飛ばした。
視線の先には、せっせと働いている掃除婦。

「――李順?」

「はい」
李順も黎翔の視線の先を追う。
そこには例の掃除ロボットがいつも通り黙々と掃除をしていた。
無機的な表情で、あちらこちらに移動している。

その動きはなんとも心癒されるのだが――黎翔は「違う」と小さくつぶやき、首を振った。

「ともかく。どうしても会食を実現したいのなら、令嬢は抜きだ」

「御意」
李順は引き下がった。

「――それから。老子を呼べ
…直ちに」

「かしこまりました」

待つ間も、黎翔はよどみなくデスクワークを続けていた。
李順は胸ポケットから携帯電話を取り出すと、短く指示を出した。
ピッと切ると、黎翔に向かって報告をした。

「すぐ、参るそうです」

「そうか」

ほどなくして人の気配がした。

「お呼びでございますか?」

「入れ」
黎翔が声をかけると、社長室のフロアに背の低い老人が手を合わせ神妙な顔でチョコチョコと歩み入る。

「何事に。…ございましょう?」

「同じセリフを返そう」

「は?」

「は?じゃない。…あれは何だ、と聞いている」
黎翔が指差したのは、掃除機をかけながら忙しそうにフロアの中を移動中の掃除婦。

「はて。
自動掃除ロボット、では?」

「違う!」

黎翔がいつになくイライラとして厳しい表情を見せた。

「違う…とは?」
李順はしばらく二人のやり取りを聞いていたが、黎翔が何にそこまでイライラしているのか、皆目わけが分からなかった。

「何か故障しているのか?
確かに充電に不具合があったようだが…
コミュニケート機能はどうした?
なぜ今は、あのようにつまらん?」

「不具合ならば調整はいたしますが
つまらん?とはいったい」
老子は知らん顔でとぼけて尋ねる。

この間、不具合調整をしている間、人間の掃除婦、夕鈴にしばらく入れ替わらせていたことだなと内心分かっていたが、いまだ掃除ロボットと人間の違いに気が付かない朴念仁の社長にチョビットばかりお節介したいというおちゃめな老人心が芽生えていた。

「…あれでは、ただの掃除ロボットだ。
“私の夕鈴”はどこに行った?」

もともと掃除ロボットじゃありませんかっ!という李順の突っ込みには一顧だにせず、黎翔は老子に詰め寄った。

「ちょっとお待ちくださいっ! あなたの夕鈴…?
――バカバカしい。社長。
あれは掃除ロボットですよ?
家電製品ですよ?
そもそもあなたのその掃除ロボットへの入れ込みようは、私には理解できません。」

「分からん…ただ、
彼女が普通に掃除をしてくれているのが
かわいくて、うれしいだけだ――」

「じゃから、夕鈴と名前までつけ、
まるで嫁のようにかわいがっておられたのですな?」

嫁じゃありませんっ、まったく!と、李順が息巻く。

「張。おまえ、あれに手を加えたのか?
何やら要らぬことは吹き込んでおらんだろうな」

「整備と調整は少々させていただきましたが」

「コミュニケート機能は――
この間はしゃべったぞ。あれは何だったんだ?」

「不具合がございましての。
最新技術とはいえ、まだまだ開発途中の機能ですから」
張老子は答えを濁した。

「反応が違う。この間のはまるで――」

「まるで?」

「ロボットとは思えない――」

「社長っ!
この掃除用ロボットはあくまでお試しキャンペーン中のレンタル品です。
短期間で帰っていただくものですから。
社長もそのように」

「もう買い取ったらどうじゃ、メガネの若僧?
ずいぶんと改造してしまったし。
なんといっても
わが社のテクノロジー部門の最新技術を投入したんじゃから。
もはやあれは企業秘密の塊じゃ!
トップシークレットじゃ!」

「なんてことしてくれたんですか~っ!」
喧々諤々ともめる李順と張の二人をよそに、黎翔はつぶやいた。

「……最新技術?
トップシークレット?
――違う」

くるりと振り返り、黎翔は立ち上がった。

掃除機ロボットはトコトコと黎翔の方へ近づいてきた。

「充電か…」
黎翔は掃除機ロボットと入れ違いに座を離れ、一面ガラス張りの窓の方へと向かう。

「社長?」

これまで、いそいそと人形を抱きしめていた人物とは信じがたいほど、黎翔は興味を失っていた。
掃除機ロボットは自力で椅子に座り、充電を開始した。

「社長っ!
このまま社長椅子にロボットが居座っていたら、あなたのお仕事が――
さっさと急速充電でもなんでも速攻やっちゃってくださいっ!」

「――否

あの時の夕鈴と。
これは、違う――」

寂しそうに肩を落とし、黎翔はとぼとぼと仮眠室の方へと歩いて行った。

「しばらく休む――誰も近づくな」

黎翔は社長室の奥へ行くと、小部屋の扉をあけ、ぱたりと閉じた。

社長椅子には、掃除用ロボットが充電中。
仕事半ばにして社長に逃げられた李順は呆然と見送った。


「…何ですか?
あれは」

李順がヒソヒソと老子に耳打ちする。

「恋わずらい、じゃ♪」

「はああああっ?」
李順は馬鹿にしたように張元を見下ろした。

「まあまあ、若僧。
みておれ。
ラブラブ・どっきりハプニング部顧問として、このイベントはワシに任せろい!」

「わが社にはそんな部はありません~っ!!」


*
検索フォーム
最新記事
最新コメント
カテゴリ
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2014/08 | 09
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -
プロフィール

おりざ

Author:おりざ
秘密の苑・刺青の男[織座舎]陛下の花園へようこそ。”狼陛下の花嫁”の二次創作作品を綴っています。足跡などお気軽に残していただければ嬉しいです。【新刊】秘密の苑・刺青の男パラレルアンソロジーパラレルアンソロジーとらさんで取扱。【お詫び】拍手コメ御礼お休み中です。本当に申し訳ありません。お返事ご希望分はコメント欄へm(_ _)m

アクセスカウンター
ただいまのご来訪数
現在の閲覧者数:
ありがとうございます
■(キリ番)カウンターでキリのよい番号に遭遇された方はお気軽にご一報ください^^

■オフ活動■ おりざの本[織座舎] 一覧 → こちら
陛下の花園へようこそ
~ご注意~
≪以下あらかじめご了承のうえ、本サイトをお楽しみください。≫

・原作者様ならびに出版社様とは一切関係ございません。
・此のブログは日々の日記並びに二次創作作品の倉庫、管理人本人の自由な自己表現の場です。
・この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件、史実などにはいっさい関係ありません。また原作と異なる設定など、表現、その他多数捏造あります。

・二次創作の場です。
・ブログ内容に関する苦情は受け付けておりません。出来る限り注意は払う意向ですが個人的表現の場という位置づけの運営上、万人に対して万全を保障するものではありません。
・読む際は各作品の冒頭の説明・ご注意等にてご判断ください。読後いかなる不都合が生じても当方はその責任を負いかねます。

・ご感想お待ちしております。

・当ブログ内の作品の著作権はブログ管理人に属し、無断コピー・無断転載は固く禁じます。
Twitter
 
RSSリンクの表示
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。