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忘却の岸辺

【ネタバレ】【ねつ造】

* * * * * * * * *
忘却の岸辺
* * * * * * * * *


「忘れてしまえ―――」

―――忘れろ、と?

いいえ。
私は、忘れられない。


思いだすごとに苦い痛みが押し寄せようと。
眼がしらに熱いものが込み上げてくることがあろうと。

あなたとともに過ごした日々を
―――私が、狼陛下に恋した日々を。

私は、忘れない。


あなたのそばに、居たかった。
あなたの力になりたかった。

いつも私のことばかり甘やかして。
嫌なことは見せないで
あの人は、いつも―――優しかった


優しすぎたから
だから
あなたは私を遠ざけたんですか?


それとも。

「忘れてしまえ―――」
あの言葉は
私を切り捨てる、あなた自身への言葉ですか?

それなら
あなたは―――

もう、私のことなど、
何もかも忘れてしまったのでしょうか…


* * * * * * * * *


「陛下―――」
李順は黎翔の方に書類を手渡しながら、ふと手を止めた。

「何だ」
「…陛下、お疲れなのでは」
「疲れてなど、おらん。…早く次を」
「いえ、今日はもう。ここまでに」
「お前のその手にあるものを―――寄越せ、李順」

黎翔の放つ冷気と剛直な声音に、李順は屈服した。
「…では、これで最後にいたしましょう。どうぞ王のご決済を―――」
「うむ」
「―――陛下」
「…まだ、何か?」
黎翔は顔を上げずに書類に署名をしている。

「―――宜しいのですか」
「だから、何が」
李順は言い淀んだあげく、言葉にした。

「あなたの―――妃だった…」

黎翔は手をあげ、李順の言葉を制止する。

「…もう、忘れた」

顔を上げた黎翔は、虚ろな瞳で李順を透かした。

「さように―――」

「終わったことだ」


終わらせたのは…  このわたし、なのだ…。



* * * * * * * * *

「―――もう、忘れた」

そう口にすることが
すなわち、まだ忘れてなどいない、ということを
今一度思いしらされる。

黎翔は知っている。

一度知ってしまったことを、知らないときに戻すなど
できないことだ、ということを―――。

知ってしまった温もりを。
唯一感じる安らぎを
愛しさを、
君に傾き求める自身の―――欲を。


そんな感情すらもたなかった時に
簡単に戻れるなど、無理な相談だった


しかし、方法がないわけではないということも
黎翔は『知って』いた。

それが
常軌を逸した手段であると
知りながら、―――。

黎翔は、そちらに傾く気持ちを
止めることなどできなかった。



私室に置かれた机の抽斗を開ける。
黎翔は、抽斗の奥の隠し底になっているからくり蓋に手をかけた。

その奥から出てきた小さな木製の箱。

古びたその箱は、経年を思わせるあめ色。
黎翔はしばらくじっとその箱を眺めていたが、おもむろに腕を伸ばしその箱を取り上げた。
手に取りピッチリと吸い付くように細工されている蓋を両手で慎重に開ける。

陶製の小さな小瓶が収まっている。


その昔。
母が求めた代物だ―――。


「知らなかった時に、戻りたい」

母は、そう叫び、
この小瓶の半分を口に含んだ―――。


悲しい思い出と、愚かな母の所業を己の戒めとして封印するため
残りの半分をこうして今まで密かに所持していた―――秘薬。

まさか、自分自身が飲みたい、と
願い欲する時が来ようとは―――。


壊れてゆく自分に、歯止めがきかない。
愚かと分かりつつ
人は、繰り返すのだ。


小瓶を手に取ると、蓋をあける。

「…今さら―――失うものも
ありはしない」

黎翔は、小瓶を唇にあて
ゆっくり飲みほした。




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忘却の岸辺(2)

暗いお話ですが、続きのおねだりも(!)あったので
もう少し、宜しければお付き合いくださいませ。

【ねつ造】

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(2)
* * * * * * * * *

黎翔は、飲み干した小瓶をトンと机に置くと、ペロリと口許を舐めた。

効き目が出る前に、支度を。

母の残した秘薬は、精神領域を侵す作用を持っている
たぶんに、―――強い、薬。

胸の痛む出来事を幻と引き換える目的に調合されたそれは、

さじ加減を誤れば精神を食い破り荒廃させ
また、多くの者は幻覚世界の中で命を落とすこともあるが

しかし
幸せなくじを引いた者は
最も辛い忘れたいできごとのみを
綺麗さっぱり、永久に、心の中から消し去ることができる、という。


万薬のご多分に漏れず、その正体は―――毒。

辛いことを忘れ去ることができる秘薬は、
一歩間違えば、死をもたらす。

「―――君のために死ねるのなら…それは甘美な罠だ。
相変わらずだな、妃よ」

あれほど愚かな母の過ちを責め続けながら
同じ道を選ぶとは。

「―――私はまさしく君に溺れる愚王だ…
だが、許せ。
これも全て
君のことをを忘れるため―――」

黎翔はこの期に及び、臆面もなく妃に話しかけた。

「もう、苦しみは終わる。
あとしばらくで、
君の姿も。
君の思い出も。
なにもかもを、私は失う」

それが、自分の魂の半分を失うに等しいと
黎翔は知っていた。

終わらせたのは、この私だ。
どのみち、残りの人生を半分の魂で過ごすのだから

長く生きるつもりは、ない。
『役目が終わるまでの仮の姿』と、冷静に見当はつけている。


自嘲気味に、口許をひきつらせた黎翔は
効き目が表れる前に、私室の一番奥まった寝所へ引きこもろうと足を向けた。

そう。―――私は常に監視されている。
王とはそういうものだ。


『この世でできぬことは何一つない存在』だなど持ちあげ
―――嘘八百も甚だしい。

王とは。
やりたいことは、何一つできぬ。
まこと不自由な存在ではないか


…周りの者が察すれば、いらぬ手出しをする。
慎重に、普段通りをよそおうのだ。


寝台の奥に引きこもり、幕をとじ
自らに轡(くつわ)をかけ、苦悶の声を封じよう。
これまで、幼いときよりありとあらゆる毒の耐性をつけるため身に着けた、慣れ親しんだ作法でもある。


自分の体を実験台にしての毒のさじ加減は心得ている。

「効くかな
いや、―――効いてもらわねば。
そうだ
…この手のものは、酒が相乗的に効きめを高めるのが定石」

思いだした黎翔は、酒の棚のほうへと手を伸ばそうとした瞬間、
幻の妃が黎翔の前に現れ、叱責したのだ。

『―――待ってくださいっ!』

「―――は?」
黎翔は目をぱちくりとした。
…随分と、効き目の早い薬、だな…?

半信半疑で、空中を見つめる黎翔。

幻?―――そうだ。
夕鈴がここにいるはずは、ない。

幻なら
忘れる前にもう一度だけ
君とあえて嬉しいと、素直になってもよいのだろう?

黎翔は安心し、幻を優しく見つめた。


『いまのは、ダメです!!』

幻の妃が、必死に叫ぶ。

「―――え?」
目の前に、妃の幻が立ちふさがる。

『妃や、酒や、
―――いわんや薬に溺れるだなんて―――
絶対、私はいやです!
狼陛下は、そんなかっこ悪い王様じゃないでしょっ!!』

「…狼陛下は、勝手気ままな、嫌われ者だ?
妃よ」

幻であっても、夕鈴は夕鈴だと、黎翔はおもわず苦笑した。

『ぜったい、ダメです
やり直しを要求しますっ!!』

黎翔は宙をぼんやりと見つめ、あっけにとられた。

…お、狼陛下が
幻のお嫁さんに、
ダメ出しをされた…?!

黎翔は、思わず吹き出しながら、
ゲホリと吐き出した。

苦痛が幻を掻き消し、肉体の五感が、不快感が急激に神経を支配した。
現実?
この不快感。

薬に逃げた、愚王?

女に。薬に。溺れすがるなど―――
冷酷非情な狼陛下の所業であってはならない。


―――そうだ、吐き出せ。


黎翔の醒めた脳裏に、怜悧な計算が次々にめぐった。

薬が体に吸収されるまで、万が一隠しおおせようと、
強く持続するこの薬のことだ…監視下に置かれている王の異変は必ず近々察知される。

そして、私の有能な側近らの迅速な行動は、おそらく私を順当には死なせてはくれまい。

中途半端な段階で、周りに介入されば
どのみち解毒の方を持って無理にも吐き出さされる。

屈辱的な処置をうけたあげく…
たとえ運よく記憶を手放そうが、下手に一命をとりとめれば廃人。

意識のない白痴の王の体に数多の妃をあてがわれ
傀儡となるが、オチ

それが彼女傷つけずに守ることに、なるのか?


本気で死にたいというのなら、いっそ剣で己の心の臓を貫け―――!
彼女を忘れたいというのなら、心の臓を切り取ってしまえ!

それすら覚悟できぬ愚か者が、
甘美な忘却の夢の世界に導かれるわけがあるまい。


吐き出せ
吐き出してしまえ!

私は狼陛下と呼ばれた男ではなかったのか?
―――なんと、愚かな!!


「陛下、いかがされましたか!?」
案の定、異変を察知した周囲がざわざわとしはじめた。

…ああ、私は勝手に死すら選ぶことはできない。


「忘れてしまえ―――」
あの日私が口にした言葉。


忘れさせてくれ、―――君のために。
きみとの思い出を忘れることで、



私は、君に、償いたいのだ…。

君をだましたことを
君を傷つけたことを

君を愛したことを―――。



それが、忘れられるものならば。



忘却の岸辺(3)

壊れかけの陛下は
踏みとどまり…

【ねつ造】

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(3)
* * * * * * * * *

緊張感に包まれた執務室。

影のように官吏は行き来し、
その奥には姿勢をただした国王が
いつものように座っている。

素早く書状に目を通し、
筆を手に取りさらさらと書きこみながら一言

「この点だけは今一度見直せ。
後は詳しい話を聞こう。
―――担当者を呼べ」
厳かな声が響く。

「は、ただちに」
と汗をかきながらホッとした表情で下がる官吏。

次に控えていた者が前に進み出て、粛々と書面を差し出す。

国王はチラと目を通した途端に
「馬鹿者」と書類をはじいた。

オロオロとする官吏は肩をすくめ
それでもすがるように必死に問う

「大変に急ぎの案件でございますれば…
申し訳ございません!
お、畏れながら、どこか不備でも―――」

「急いでいるのなら、尚更。
どこに不備があるのかも分からぬのならば、その首から上は飾りだな」

じっと睨みつけるその視線の先。
今まさに『無能』のレッテルを張られた官吏は蒼白を通りこし青黒い顔で、指一本動かすこともできず固まった。

周囲は息もできぬ緊迫感に縛られた。

「―――陛下。その件は私が預かりを」
李順が横から助け船を出し書類を受け取る。
官吏は頭をさげ、唇を噛んだ。

「…まともなものを、回せ」
「御意」

* * * * * * * * *

ここしばらく狼陛下は政務に熱心で精力的に励む姿勢をみせている。

テキパキと諸々の案件を的確に裁くその力量は
誰から見ても計り知れぬもので、
およそ一人の人間がなしえることではないと感嘆するばかりだった。


「…少し、ご休憩を?」
李順が促す。

「ああ、そんな時間か…」

黎翔はおとなしく李順の勧めにしたがい、立ち上がる。

「では、しばし鍛錬場に行ってくる。―――今日は、槍の名手、絽将軍の相手をする約束だ」

「鍛錬場まで…わざわざ?
私も机の上を片付けましたら―――」

傍らの李順の机には、中途半端で大至急見直し指示を出すべき書類が山のように積まれている。

「子どもでもあるまいし。
──いちいちお前がついてこなくとも、よい。
気晴らしに軽く体を動かしたら、すぐ戻る」

「では、私の代わりに、だれか伴の者をお連れください」
李順は食い下がる。

黎翔はあたりに居並ぶ官吏の列を見渡し、すぐ近くに立っていた方淵に目を止めた。

「…ならば方淵を連れてゆく。
安心しろ」

軽く黎翔が視線で同意を求めると、方淵はすぐに諾と肯いた。

「今日は少し暑いですし、
御政務の残りもありますので
鍛練は短時間におとどめください」

いや、心配なのは政務が滞る事ではない。
政務は順調すぎるほどに処理されているのだから──

むしろ、鍛練といいながら必要以上に身を削る王自身を案じ、
口実にしているのに過ぎない、と李順自身認めている。

「──ああ」
口うるさい側近の言葉など、馬耳東風とばかり
手を払って国王は振り返りもせず歩き始めた。

「どうか、ご無理なさらず。
ああ、それから。本日の御予定ですが。
蒼玉国からの使者が、夕刻前には──」

はっとした李順が言葉を切る。

 ××前には

黎翔は聞き取れなかった言葉を確認しようと
一瞬立ち止まった。

「…いつに──と?」

「いえ。
この後の予定もビッシリ詰まっておりますから
できるだけお早目に」

李順はジワリと汗をかいた。

黎翔は拘泥する様子もなくさらりと流し
軽やかに足を踏み出した。

「まあ、よい。槍の相手がまっておる。
早く、鍛練上に行かねば──
ついて来い、方淵」

「はっ」
方淵は黎翔の後に付き従った。

李順は皆の前で同様を見せられるはずもなく、深々と頭をさげて国王を見送った。

「では、行ってらっしゃいませ」

「──李順。心配するな。
仕事から逃げようなどとは思っておらん。
―――役目はきちんと果たす。大丈夫だ」

そういって、狼陛下は珍しく笑った。

* * * * * * * * *

政務室から出てゆく国王の背に変化がないことを李順は注意深く見届ける。

李順は『あれ』以来、黎翔の生活環境の基盤を整えることに目立たぬ腐心をしていた。

―――あれ、とは。
乱心した王が監視の隙をついて怪しげな秘薬をあおり、
三日三晩混沌の中で苦しみもがき続けた事件―――のことである。

幸いなことに、毒を飲み下したとたん王が正気に戻り、
早い段階で薬のほとんどを吐き出し自ら解毒に応じたため、命に別状はなかった。

だが一歩間違えば、いまこの場にいる聡明で強い王は永久に失われたであろう。

摂取されたわずかな量ですら
毒の効力が発揮されている間の地獄はすさまじく
あの苦しみようはただ事ではなかった。

老子と李順。二人だけのこととし、
一切口外してはならぬとただちに箝口令を敷いた。

…嵐が過ぎ去るのをただひたすらに祈り続けた三日間。

仕える側の身にとりあれほどの拷問もない。
二度と立ち会いたくはない惨状だった。

――だが三日三晩が明ければ症状は潮が引くように去り、
ケロリと国王は回復した。



…あのころの陛下は、唯一の妃を失いふさぎこんでいた。
精神の歯車がかけたようで、明らかに乱心していた…。

『もっと、私が注意していればよかったのに…』
誰を責めることもできないが、起きてしまったことには変わりない。

陛下の部屋を監視をさせていた隠密によれば

―――陛下は、隠し持っていた古い秘薬を取り出した。
自ら躊躇うこともなく口に含んだが、
そこで正気に戻り、吐き出した―――という。

体に残ったわずかな量の毒の一部が王の体内をめぐっただけで、あの始末だ…。

万が一、王の正気が戻ることなく、飲み込んだ毒薬の全てが体内に吸収されていたなら、どうなっていたのでしょう?

「陛下。あなたは
国を、民を、私たちを
お見捨てになるおつもりだったのですか
正気に戻るのが今一瞬遅ければ
我々は失うべからずものを失っていたのですよ? 
何と恐ろしいことを」

今思いだしてすらヒヤリと青ざめる李順であった。



食事、休憩、睡眠の内容、時間を自分自身で把握し、
一人きり自室にいるときも、勿論常時監視を絶やさない。

深酒できないよう酒類は全て遠ざけ、
求められたとき必要な分だけを差し入れる。
―――心配せずとも、最近の黎翔は酒には一切手を出さないのだが。

どちらかというと現在の心配事は、黎翔が必要以上に仕事にストイックであることや、鍛錬により体を壊さないか、ということであった。

最近の黎翔は仕事を精力的にこなす一方、軍部の方にもせっせと足を運ぶ。
また時間があればひとり黙々と体を動かすのを常としていた。
必要以上に過酷な鍛錬を己に課し、体を鍛えることに熱中しているきらいはあった。

それでも体を動かし汗をかき、過去を忘れ、健全で規則正しい生活が送れているのなら、よい、と―――側近はほっとしていたのである。

「本当に、あの時はどうなるかと」

心配した以上に、元通り。


規則正しく生活し、仕事をこなす。
文武両道の誉れ高き王は、強さにおいても日々鍛錬を欠かさない。
王として尊敬に値する、これほどの賢君もおるまい──。

そして二人きりになれば、
以前同様「小犬」のような振る舞いをする姿も見られる。

なにも、変わらない。

いやむしろ、
生まれ変わったようにリフレッシュした黎翔は
文句のつけようがないほどに
国王として精力的に国の為働いている、といえる。


「―――だが。
あれ以来、一言も
陛下は
夕鈴殿のことを口にされない」

李順は気づいている。

口にしない、のではない。
彼女が存在したことを、知らない──のだと。

それ以外の事は全部覚えているのにもかかわらず
夕鈴のことだけ
なにもかもなかったように
すっぽりと記憶から消し去られ

―――あのバイト妃を雇う前―――に戻っていた。

黎翔は、愛しんだ存在の何もかもすべてを…忘れ去っていた。




忘却の岸辺(4)

ただいまもどりました。
オフの世界にどっぷりひたって温故知新(←?)
今朝未明、入稿が済んでホッとしました―――。

コメントへのお礼、これからさせていただきます。
不義理をして本当にすみませんでした。
いただいたコメント、拍手コメはきちんと読ませていただいております。
お休み中もたくさんのご訪問本当にありがとうございました。
苦しいときの活力でした。本当にいつもありがとうございます。


【ねつ造】

ちぐはぐな黎翔と、見守る人々。


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(4)
* * * * * * * * *

鍛錬場では今まさに国王と将軍の槍の手合いが行われていた。

二人は練習用の槍を持ち、向かい合って槍身を触れあわせ、睨みあっている。
ピーンと張りつめ、誰もが固唾をのんで見守る中、じりじりと砂利を踏みしめる音が嫌に大きく聞こえた。

「ヒョウ」と声を上げ、体格の良い黎翔を更に上回る背丈の絽将軍は、
軽々と片手で槍を振り回し、低い姿勢から大股に一歩踏み込む。

黎翔は体を大きくひねりながら槍を回し、はじき絽の切っ先をかわす。

絽将軍は前に前におしながら自由自在に槍を操るが、
黎翔はめまぐるしく動く槍身を冷静に見極め紙一重でかわし、薙ぎ払う。

相手の呼吸の間合いをはかり、空中を跳躍し大きく槍をしならせ地に叩きつけ、
蹴りを入れると絽将軍はそれを軽々と長い腕で防ぐ―――。

二人の対練は、型の決まった演武であるかのように
素早くよどみなく流れるように続く。

黎翔は、目にも留まらぬ速さで連続突きで絽を追い詰めると
「はぁっ!」と一声。
大きく跳躍しキリキリと空中回転しながら、
バランスを崩した絽めがけて深く突きこんだ。

とどめの槍先は絽の腹に深々と―――寸でのところで翔は手心を加え地面を突き刺した。

絽将軍は負けを認めた。

見守る兵士らがやんやの歓声をあげ、辺りは興奮に包まれる。

目の前の試合の白熱した妙技に、方淵も目を輝かせていた。

「―――陛下、お見事にございます」
従者恭しく槍を受け取り、方淵が黎翔と絽将軍の二人に水の入った器を差し出す。

「ご苦労」

絽将軍に一つを差し出すと、絽将軍は額の汗をこぶしで拭いながら笑った。

それまで食い入るように黎翔と絽将軍の試合を見入っていた兵士らがざわざわと散開しはじめる。


「いやあ、陛下。私の完敗にございますぞ!」

「最後、勝ちを譲ってくれたのだろう?」

「いやいや、あの神速の連続突きには、私も付いてゆけませんなぁ。
スタミナが続きませんでした! 陛下の実力にございます」

「いや、力業にはかなわぬ。
やはりお前の方が一日の長ありだった。―――楽しかった」

黎翔ももろ肌を脱いで汗を拭く。

「御手合わせいただき、何よりにございました」
絽将軍は畏まり頭を下げた。

方淵が生真面目に黎翔の脇にかしづくと、絽将軍が尋ねた。

「…おや、今日の陛下のお付は。いつものメガネの側近殿ではないようですな?」

「あいつは事務方で忙しくてな。
ここについて来るといったのだが、
子供でもあるまいと断った」

「ははあ、
その若い補佐官も、文官とはいえよい面構えをしておりますな」

「だろう?―――方淵、お前もやらんか」
黎翔は笑いながら錬場を指さした。

「はは―――。お恥ずかしながら、私の腕ではご退屈させてしまうばかりと存じますが」

「そんなことはあるまい、少し手合いをしてみるか? 何を使う。剣か、槍か?」
絽将軍はウズウズして方淵に向かって尋ねる。

『絽将軍は、
腕の立つ若い連中と手合いをし、
コテンパンに叩きのめすのを何よりもの楽しみにしている』
というのは、文官である方淵の耳にも入っていた。

「私のようなものと、天下の絽将軍が御手合わせしていただけるなど、有難き幸せなれど
―――『夕刻には戻れ』と、李順様より固く言われておりまして。
畏れながら、陛下。そろそろお時間にて」

方淵は失礼にならないよう腰を低く奏上する。

黎翔は額の汗を布で拭うと、
前髪を手櫛で梳いた。

「…ん? そうだったか?」

体の汗を拭き終わり、黎翔は上衣を羽織りなおす。

「蒼玉国の御使者が。
夕刻、
お見えになる、と
伺っておりますが」

方淵がもう一度、ゆっくりと。

「蒼玉国の使者が、
×× 刻
……いつ? 
ああ。
この後、だな?」

聞き取れない『音』に、黎翔は眉をかるくしかめながら、自分なりに納得する。

辺りでは気勢をあげながら各人がそれぞれの鍛錬を再開していた。
大声を張り上げ切り込む者、ダーンと地響きを立てて倒れ込む者、掛け声をかけあう者たち
…そんな中であるから、時には風に言葉がさらわれることもあろう。

黎翔はクルリ絽将軍を振り返り、今日はこれまで、また来る、と告げる。

「よい汗をかいた。絽将軍、今日は楽しかった。またぜひ手合いを頼む」
「ありがたきお言葉」

機嫌のよさそうな黎翔に付き従いながら
方淵は先ほどの黎翔の様子にチリと違和感を感じていた。

『聡明な陛下が―――あのようなあいまいな受け答えをするのは、お珍しい』
これまで感じていたもやもやとした何かが方淵の胸の中で渦巻いた。
しかし、今は李順に託された従者としての仕事を完ぺきにやり遂げねばならない。

「…陛下、そろそろ夕刻が迫っております、―――お急ぎに」

「…あ? ああ」

方淵はハッとした。

―――『夕』

欠けた言葉―――

最近の陛下は、ますますに精力的で賢君として、尊敬すべき対象ではある―――
だが。何か。

以前とは違う、喪失感…

もやもやとしていた方淵の胸中に、一つの像が形を結んだ。

―――彼が失った、唯一の花。

それが、今の彼に欠落している何かの正体だった―――と。


あの日。
唯一の花が突如後宮から消えた。

人々が憶測すら口にも出来ないほどに
国王は痛ましく暗く沈み、ピリピリとした雰囲気を漂わせていた時期もあった。

あの頃、国王は見るからに痩せ、ギラギラと異様な目の色をしていた。

大臣の中には「ついに国王は乱心したのでは。世継ぎもない王の次は―――」と剣呑な言葉すら交わされていた。

そして日に日に様子が悪化した後、数日というもの国王は政務室に顔を見せなかった。

「陛下は、急なご視察に」
そう側近からは告げられた。

『いつの間に?』
『あのご様子で…?』
首をひねったのは方淵だけではあるまい。

これまでも時折忽然と王が姿を見せなくなることもあったが、今回ばかりは何か様子が違った。

決定的だったのは
『陛下のことについては、周りから何を聞かれても答えるな』

やんわりとではあるが、政務室内で口止めがあったことだ。

「勿論どのようなことであれ、事の大小に関わらず
陛下の最近のご動向について
一言でも口にすれば
…―――お分かりですね?」

あの時の側近の様子は異様なほど緊迫していた。

―――チラとでも喋れば、命はないぞ―――
と、まるで脅迫をうけたように。その気迫に、冷や汗が流れた。

『もしや、陛下はお倒れになったのでは?』
その時、政務室に努める者たちは皆、内心で思っていた。

だが3、4日すると、国王陛下はまるで何事もなかったようにすっきりと政務室に顔をだし、
元通り、いや以前にもましてお元気に、
国政にも精力的に取り組まれている…。

『…まるで、今日の陛下は
憑きものが落ちたように、すがすがしいご様子ですね』と
あの時の陛下のお顔を見て表現したのは―――水月だったか…?

『どちらにせよ、詮索なんて畏れ多くて
私たちには許されないことだけれども…』

そうだ。
詮索など、できようか。

そうだったから。
だれも口にはしなかった―――

消えた妃のこと。

「夕鈴」 と
呼ばれた、
あの女のことを―――。


方淵は立ち止まり、足元から伸びる自分の影をじっと見つめていた。

『今の陛下は、まるで影を失ってしまった
うつせみのようではないか―――?』


「…何をしている、方淵。
置いてゆくぞ?」

黎翔は既にかなり先に行っていた。

方淵はハッとして後を追った。
従者として遅れをとるなど、許されない失態であった。

* * * * * * * * *

蒼玉国からの使者との謁見の際、
「こちらは、瑠霞姫からのお預かりものでございまする」
と手渡された品があった。

「―――女物の、衣裳?」

なんだ、と黎翔は小声で吐き捨てるように李順の方へチラリと顔を向けた。

「衣裳に合わせた装飾品一式、何から何まで瑠霞姫自らお手に取って選ばれたものばかり。
こと、こちらの衣裳は蒼玉国特産の生糸に金糸銀糸をふんだんに織り込んだ最高級の生地を、我が国一のデザイナーの手により仕立て上げた一品ものにて、さぞ陛下のお気に入るものと、
くれぐれも大切に扱い、宜しく伝えてくれと、瑠霞姫様よりお預かり申し上げました」

黎翔は訳が分からなかった。

黎翔の小さなつぶやきをよそに、李順は使者に深々と頭を下げて謝意を示した。

「お使者殿、それは御心配りに感謝いたします。
ありがたく頂戴いたしました、我が主は大変喜んでおります、と
ご先方の瑠霞姫様にお伝えください」

李順がそつなく対応していると、
周囲に聞こえないよう黎翔はつぶやいた。

「そんなものを、どうしろと?
あの叔母上は、いつもこうだ―――訳が分からん」

李順は
「陛下。金目のものはなんでもありがたくお受け取り下さい」
と、事務的に小声で返答をした。

(やはり
―――覚えていらっしゃらないのですね…?)

李順は、はぁ…とため息をついた。



忘却の岸辺(5)

少々最近の設定を取り入れております。
コミックスはの方には、ネタバレ注意。

【ネタバレ】【ねつ造】

消滅は
悲しみ、と救いをもたらし…


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(5)
* * * * * * * * *

世継ぎの君なき国王、珀 黎翔。

「王弟殿下を王都に呼び戻すべきでは」

「いやいや、すでに臣下に下ったお方を、何をわざわざ今さら…」
と、
王弟の扱いに王宮は真っ二つに分かれ、紛糾していた。


黎翔は冷やかにその論議に水をさした。

「いずれ、誰かが継ぐにせよ。
まずは白陽国が確固たるものでなければなんとしよう。

今の己らのように
たかが一人の子供の扱いで国を二分し、いがみ合い、争えば、
国力を削ぐことに繋がろう。
その隙に諸外国に狙われたらどうする?
万が一にも国を亡ぼされれば
名ばかりの継承者など何の意味も持たんぞ?」

「しかし、陛下!
あなた様に後継者がいないのは事実。
国民の安寧のため、どうされるおつもりか、お考えをお聞かせ願いたい!」

重鎮の一人が口火を切った。
周りはみなうなづいている。

「そうだな…どうしても聞きたい、というのであれば。
まずは我ら一丸となりこの国をたてなおし、盤石な国政が実現した暁に、教えてやろう」

と、冷たく言い放った。

* * * * * * * * *

日々精力的に、仕事に対して貪欲な狼陛下。

「―――李順?
どうした」

「陛下がご熱心にご政務に当たられるのは何よりですが…。
本気を出されると、それはそれで周りが辛いですね…」
李順は苦笑した。

政務室の面々は疲れていた。
だが、遣り甲斐で得る喜びの方がそれを上回っていた。

つまらないものを出せば一瞥もくれられず、容赦なくやり直しをさせられた。

だが、鋭い意見、新しい提案・手法は、適正に評価された。
まこと、惰性の政務ではなく生産的な取り組みと結果を求められた。

有能な者ばかりを集めている部署であるからして
誰もが陛下のご期待以上のものをお出しせねば―――と張り切った。

だが、新しいやり方というのは時に『敵』を産む。

『うまみのある』立場を手放したくない者というのは居るもので、
古い因習どおり暗黙の契約により、私利私欲を肥していた輩にとって
そこに光をあて暴かれることは、避けねばならぬことであった。

そういうわけで、
精力的に国政に尽くす賢王を目の上のたんこぶと疎む輩は日に日に増えた。

狼陛下はそれらを力で抑え込み、時には実力行使も辞さなかった。

――民のための、正しい国政を――と、尽くせば尽くすほどに
国内に敵を増やすとは、まこと皮肉なことであった。

獅子身中に虫ありのことわざ通り、
貴族や官吏といった国政を預かる支配階級社会の大物から小役人まで
王の庇護下に居て恩恵をあずかりながら、逆に仇なす者は後を絶たなかった。

* * * * * * * * *

そのころ
夕鈴は遠い地に居た。

宰相や州長官といった人々に助けられ、匿われ、遠い土地でたくましく暮らす夕鈴。

その彼女が唯一胸に秘めている希望、それは
『陛下にいつか会って、自分の気持ちをちゃんと伝えたい』 
という願いだった。

その時のために今は努力する時と彼女はとらえている。

自分の目で見て、聞いて、判断したい。
綺麗なことも、そうでないことも。

そういう思いから、王弟の住む地を訪れたいと思っていた。

晏流公に会って、どうなるのか―――それは夕鈴本人にも分かっていない。

しかし、
家族とか、兄弟とか、友達とか。
そういった価値観が「陛下と私は、生まれ育った環境が違うから、まったくかけ離れている」
と、分かれば分かるほど、
「陛下の悲しみの正体」を知りたい気持ちは募るばかりで、
夕鈴は自分の目で見て判断したかったのだ。


「兄王に命を狙われた、陛下…?
兄弟で憎しみ合うの―――?」
その事実はショックでなかったといえば、嘘になる。

王族がそういうものだ、といわれれば
頭では納得しなくてはならないと思うのだが
どうしても自分には分からない。

「だって、私は弟、好きで好きで、たまらないんですよ――?」

『そう。
だって陛下は、
私が青慎のことばっかり構っている様子を
嬉しそうに、くすぐったそうに見つめていた――』


「陛下だって、家族仲良く暮らす、そんな環境にいれば、
きっと、お兄さんや弟さんが好きになったはず―――」

冷たい狼でも。あの人の目は優しかった―――。
誰からも怖れられ、嫌われるなんて、それはわざと、そう演じているだけ。
あの人の瞳は、いつだって悲しくて、温もりを求めていた。
だから。きっと―――。

  …陛下。 人を信じて?
  遠くに行かないでください。

夕鈴は、遠ざかるあの人に心の中で必死に手を伸ばす。

『少しでも、あの人に近づきたい。
近づける方法が、どこかにあるはず。
私だけじゃなくって
あの人からも。
冷たい心の扉を開いて、出てきてほしいから。
冷え切ってしまったあの人の心を溶かし
人の世の温もりの世界に一歩踏み出すきっかけが。
きっと、どこかにあるはず…』

―――祈るように願うからこそ、
夕鈴は晏流公のことが放っておけなかったのだ。


「私を突き放して。
酷いこと言って、傷つけて。

なのに、私のこと心配して。
周宰相も、荷長官も、浩大も、李順さんも―――みんな
優しくしてくれるのは、
やっぱり陛下が甘やかしてくれてるから、ですよね…?」

『そんな風に大切にしてくれたから。
こんどは私が陛下に気持ちを届けたい』と

『たとえ玉砕したって』

あなたが好きだから
あなたのために何かしなきゃ、と

それは、前に進む自分自身の覚悟。

陛下は、―――遠い
なら、私あなたのところまで進もう。


夕鈴は胸に誓う。

「陛下。必ず会いに行きます。
待っててくださいね―――」と。


* * * * * * * * *

遅くまで政務室に灯が点いている。

「では、お先に」

「お疲れ様でした」

方淵は書類に埋もれていた頭をあげ、先輩に挨拶を投げかけた。

「御機嫌よう―――
…って言っても、私の機嫌は、最悪」

水月の手からパサリと書類が滑り落ちる。
彼は意識を保つため、小さく頭を振った。

「ああ…みんな帰ってしまった…。
どうしてこんな遅くまで。
私が君に付き合わなきゃならないんだい…」
水月はため息をついた。

「ぬかせ。お前の仕事を私が手伝ってやっているんじゃないか!
私こそ、とんだとばっちりだ!」

「こんな夜は…笛が吹きたくてたまらないんだけど、ねぇ」
水月はふわりと笑い、もう何もやる気がなさそうだった。

方淵は、他の者が皆帰ってしまったのを見計らうと、手元の書類を伏せ、
水月の方へ向きなおった。

「―――水月」
「…何か?」
真剣味を帯びた方淵の顔に、若干戸惑いながら水月は微笑んだ。
方淵は眉根に皺をよせ、慎重に当たりの様子を伺い、立ち上がり忍び足で窓や扉の外に誰もいないことをもう一度確かめた。
改めて座り直し、水月に向かう。

「―――陛下は、おかしい」
「そうだね」
ニコリと笑う水月。

「はぁ?」
こともなげに水月に即答され、
方淵は話の腰を折られたようでむっとした。

「おかしくなければ、こんなに仕事なんてできないさ」

「馬鹿をいえ。そのような怠け者は、お前だけだ―――そうではなく」
「いや。
今の陛下は…何かが欠けていらっしゃる。
そう言いたいんだろ、君は?
まあ――僕には何が欠けてるかまでは、分からないけどね」

水月はズバリと言い放った。

「水月―――貴様…」

方淵がまじまじと水月を見返すと、
水月はまるで遠い月を見上げるように天井の向こうに視線を向けた。

「人として、何かを失わないと
ああは、いられない、
…君は、そうとは思わないかい?」

「お前が言いたいことは抽象すぎてよく分からん―――だが。きっとそう云うことなのだろうな」
方淵はブスっとした表情で答えた。

「君は、何に気が付いたの?」
水月は自分の袂をさらさらと撫でつけながら、壁に背もたれ目をつぶった。

「陛下は、…欠けていらっしゃるんだ」

「欠けて?」

「そう――― 『夕』という文字が」

「夕!」

水月には、方淵が何が言いたいのか分かる。

「お妃様、だね…」

「正確には、元妃、だ―――」

方淵は几帳面に言葉を正す。
だが問題はそこではないと互いに了解をしているので、話を先に続けた。

「―――陛下は、夕という言葉が聞き取れない。
この間、軍部のお伴したとき、何度かそれを感じた」

「ふぅん」

「書類の中に、夕の文字を書いた…大切な書類の中に混ぜて。
読む者が見れば、明らかな間違いと分かる―――」

「それは君、すごい度胸だ。わざと間違えた書類を陛下にお見せするなんて―――!」
水月はまじまじと方淵を見つめると、珍しいことに彼のことを直接褒めた。

「馬鹿者、私だってしたくなどなかった…完ぺきな書類をおつくりすることこそ、私のモットーなのだ。
―――だが、私は知りたかったのだ。
へいかの耳は聞かず、
目は見えず。
あの女の存在も何もかもが、消えさってしまったのだ」

「見えない?
それは、わざと読んでいないフリをしているとか?」

「いや、あれは…『無い』んだ
概念もなにもかも―――
まるであっても掴めぬ空気か、流れる水のように」

「空気…水
だから、痛みも感じない―――と。
確かに一時陛下はお妃様を失い、たいそうお悲しみだった…。
そしてある日を境にすっきりと何もなかったかのごとく立ち直られた…。
だけど、本当にそんなことが、できるのかい?
あるものを無くすだなんて―――
何もかも知らないと、感じることすらない『無』に戻すだなんてことが…」

水月は方淵を見つめた。

「さあ、分からん。
…精神の問題なのか、
何か呪術的な強制によるものなのか―――
そういう方法があるかどうかさえ。私の専門ではない」

「ああ、君は―――超現実的だからね。
それに、たとえ陛下がそうであったとして。
現実的にはそれほど何か悪い具合があるわけでもなし」

水月は肩をすくめ、笑った。
その水月の態度は少なからず相手をイラつかせた。
方淵は怒気をあらわにする。

「茶化すな!―――そんなことを今は論じているのではあるまいっ!
たとえ実害がなかろうと!
私は陛下のことを心配してだな…」

「そう。―――何も、問題ない
それが、問題なんだ」

水月はそう言って、言葉以上に真剣な表情で方淵を見返した。

「あの方は、
そのために
一番大切な何かを失ってしまったんだね、きっと」

悲しそうに水月は微笑み、その吸い込まれるような瞳の色を見ているだけで、
方淵は堪らなく胸に痛みを感じるのだった―――。



忘却の岸辺(6)

昨晩は書きながら寝落ち。
書き足してようやくアップ。

入り乱れて嘘八百ですけれど、若干本誌設定も取り入れております。
(コミックス派の方はネタバレ注意)

【ネタバレ】【ねつ造】

失ってしまった、
それは
もう二度と。
還らないのだろうか――

なにもかも
痛みすら、彼方に。


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(6)
* * * * * * * * *

「陛下のご様子は―――?」
「周宰相。…お変わりありませんよ。
もうすっかりお元気になられ
あれ、あのように、ご政務にもご熱心にとりくまれ
――― 一臣下として
文句のつけようもございません」
きちんと片付いた書簡の山に視線を投げかけ、李順は乾いた声で笑った。

「陛下は―――お変わりになられましたな」

「そう、かもしれません」
李順は宰相から目を背けた。

「明日から四日間ほど、ご公務で他出と伺っておりますが
陛下のご体調の方は―――」

「問題ありませんよ。…宰相、何かご心配でも?」

「いえ」

周宰相の言葉の真意を、李順は言葉の裏で推し測っていた。

李順は綺麗に机の上を片付けると、もう一度がらんとした政務室の隅に目をやった。
いまは何も置かれていない床に、西日が差しこむ。なんだか無性に寂しかった。
そこには以前小さな椅子が置かれており、陛下の唯一の花が時折訪れては、長い時間じっと座って居たものだった―――。

李順自身、認めねばならなかった。
「…陛下が、お変わりになった―――そうお感じになるのでしたら、その通りかもしれません。
陛下は一つの悲しみ乗り越えられ、お強くなられた、と。
そう。受け止めてはいただけませんか?
たとえ以前と何かが異なったとして―――実害はありませんから」

「実害…?」

「なによりも、今。こうして以前にもましてご機嫌麗しくあらせられることが―――我ら臣下としてもお慶び申し上げねば、と…」

「我ら臣下に取って、陛下の御代が平安であれば何よりまさる喜びはございません。
ただ、静かな湖面とは裏腹に、
水底の奥に広がる混沌と、嵐の予感が―――」

「…また。周宰相のいつもの予言ですか?」
李順はあえて笑って見せた。
「特段心配は無用です」

周宰相の顔は血色が悪く、いつもと変わらぬ乾いた声で答える。
「たとえ表面上穏やかにみえたとしても…
つじつまが合わないのが―――人という生き物の難しいところでございますれば」

「それこそ、周宰相の気の回しすぎですよ。
重ねて申し上げますが、陛下はお元気です。…ご心配されませんよう」

「そうでありますように。
―――では、私はこれにて。
道中の無事を心よりお祈り申し上げております――」


* * * * * * * * *
夕鈴は買い物に出たついでに、ふとある噂を耳にした。

「国王さまが、この隣の州においでになる―――?」

「ああ、なんでも、隣の州ではさ。去年おととしと2年間、大水や災害が続いてねぇ、
それでも税金収めなきゃ許されないってんで、ずいぶんゴタゴタ続きだったんだけど、今回州長官と領主が替わったから、その視察だってウワサだよ」

聞き耳をたてていた夕鈴がつぶやく。
「隣の州―――」
腕を組んで考え込む夕鈴。

「…連れてってやろか?」
隣にいた浩大がポロリと口を滑らした。

夕鈴は浩大の襟首をつかんだ。
「―――知って、たの?」

「うーん。まあ、情報は」

「連れてって」

「…でも、直接会うとかは、―――きっと無理だよ?」
「構わない。…私も、まだお会いできない。
でも、チラっとでも―――ううん。一緒の場所に居て、同じ空気を吸えるだけでも、いい」

「お妃ちゃんのことだからさ。
…どうせ行くってきかないんなら
最初から案内したほうが。楽だからな」

浩大は笑った。

* * * * * * * * *

隣の州とはいえ、女連れで移動するのは大変だった。
ましてや身分を隠し、目立たぬように、もめごとに巻き込まれないように――。
細心の注意をはらっていても、若い女というだけで目を引いてしまう。

配役上、克右が夫役、夕鈴が妻役。それが一番自然だった。
旅の役人夫婦に扮した二人に、浩大が従者役で付き従う。
そうして隣の州まで馬車で移動した。

便宜を払ってもらったおかげで、スムーズに旅は進んだ。
しかし国王の視察があるという日程はあまり表ざたにはされていなかったにもかかわらず、王が視察の合間に立ち寄るという寺には多くの野次馬が出て、警備が大変厳しかった。

人垣にもまれ、三人は徒歩で移動していた。
王を一目見ようと、寺の境内はすでに人がいっぱいだった。門の外まであふれた人で参道は埋め尽くされ、夕鈴たちはその中で前も後ろも人垣にかこまれ立ち往生している。

「――どうして、こんなに警備が厳しいの?」
「うーん」
浩大が言いにくそうに言葉を濁した。

「この州が、災害や飢饉に見舞われて、重税で苦しんでいたって話――は」

「あ、ちょっと小耳に…。
灌漑用水の着工や、民のための病院もできるって…。
苦しんでいた民に救いをもたらすなんて、陛下はご立派だと思います」

「そうだよね」
浩大はなんだか意地悪そうに笑った。

「…なんで、そんな風に笑うの? 浩大」

夕鈴はチリっと痛みを感じた。
(――私には、見えていないんだ。だから…)

シュンとなった夕鈴に、優しげに克右が説明をした。

「ですから、お嬢さん。
これまで民を泣かせてまで集めた税金の行く先がどこだったか、
という話なんですよ。
――陛下はこのたびその膿にメスを入れ、
患部を切り開いた、というわけです」

「それはとても良いことだと思います。
悪いことを改善するのが、よくないんですか? 
ここにいる人たちのほとんどは、
陛下のなされた政によって重い税金から解放されたってことでしょう?」

「長い因習の中で行われた搾取という行為ですから、ね――。
その改善には、さぞ恨みもかうことでしょうなぁ」

夕鈴はようやく事の次第が飲み込めてきた。

「じゃあ、この厳重な警備って――」

「逆恨みをする輩がいないとも限らないってこと――かな」

浩大がさりげなくあたりの気配を読んでいた。
夕鈴は暗い顔をした。

「それって陛下が狙われている――ってことですか?」

「正攻法で狼陛下に手出しするなど、
そうそう簡単に行くことじゃありませんよ。
陛下の剣の腕前の前には何人たりとも敵わないですし。
陛下をお守りする近衛の精鋭部隊ときたら、
列強の諸国が本気をだしたって打ち破れない壁です。
…ただ、万が一にも、そういうことがないように
造反を防ぎ、民が巻き込まれないように
――という姿勢を示しておいでなのでしょう」

「そう、ですか」

「それにしても、この警戒では、
――陛下のお近くまで行く、というのは
むつかしいですね。
せっかくここまで来たのに」
克右は寂しそうに笑った。

庶民と王の、遠さを知る。
あんなにも近くで過ごしたのが夢みたいな話で。

その声を聴き、お顔を見て、触れられて――。
一緒に過ごした時が、なんと貴重なものだったか、思い知らされる。

「会えなくても、いいんです。あの方のお近くに来られただけで」
夕鈴は、言った。

* * * * * * * * *
国王は州に入るなり、休む間もなく公務に当たった。

州朴の庁舎を回り、長官や各部署の担当者と目通りし、すぐさま現場へ足を運ぶ。
灌漑用水の着工の視察。式典への出席。飢饉の状況を聞き、穀類を安く回してもらえるよう隣州に協力を呼びかける。病院を回り、遺児らが身を寄せる寺を回り――。

短い滞在期間の中、黎翔はめまぐるしく次から次へと目の前の一つ一つに取り組んでいた。

立ち寄ると情報が先に流れていた寺の境内は、民に埋め尽くされ、警備が大変そうだった。

公務を済ませたとき、その事件は起こった。

寺の境内の端。
人払いをしていたにもかかわらず、数名の男たちが侵入した。

今回不正を暴かれ、粛清を受けた官吏とその一派――。

男は女を一人連れていた。
「この恐ろしい独裁者が――」
男は叫んだ。

「いたずらに武力を振るい、古き良き因習を踏みにじる――
英雄気取りの若き王よ」

男たちが引き立てる手の中の女を見て、
李順はぎくりとした。

「どうだ。見ろ!
 お前の唯一の妃、とやらだ――
我々が手に入れた、お前の最愛の――」

(夕鈴、どの――?)
李順は眼球が血走るほど眼圧を高め、
視線の先にあるその姿を凝視した。

髪の色も髪型も、服装も。
顔つき、体つきさえ――
遠目であれば、あれほど見慣れた自分でも一瞬今違うほど、似ていた。

ざわざわと「妃だ」
「王が隠していた唯一の妃だ――」
「いや、すでに死んだと聞くが」
「まさか――確かにあの姿は妃…」
と、王の身辺を守る気高き近衛、警備の者たちも
一瞬判断に虚を突かれ、混乱が生じた

「構えろ!」
黎翔が叫ぶ

「お待ちなさい!」
李順の緊迫した声が飛んだ。

黎翔は無言のまま、薄笑いを絶やさない。

造反者は声を振り絞って叫ぶ。
もう逃げ場はない――富も権力も失った彼は、
せめて王に一矢報いることだけを願っていた。
すでにその顔には狂気を帯びたすらいた。

「狼陛下――お前も、大切なものを失う悲しみを、知るがよい!」

男たちは妃を盾に、手に手に武器を構え、王に向かって襲い掛かった。

正攻法で、王をしのぐのはむつかしい――
ならば、汚い手を使うまで。

敵ははなから潔く勝負する気はない、
泥臭かろうと、相手の命を取ればよいのだ…戦は。

捨て身の造反者に、王の警護はすきを突かれた。

しかし李順は見逃さなかった。
『境内の敷居をまたぐとき、女は敷居に載った――』

「私が自ら妃教育を施した方が、
たとえどんな時であろうと
敷居を跨がず足で踏みつけるなど。
そのようなことは決していたしません――」

李順は即座に『その女が夕鈴ではない』と判定を下した。

だが、王の周囲を固めていた数名の側近、近衛は知っていた。
王が愛した唯一の花の容貌を。

誰の手にも触れさせなかった花――
どれほど大切にいつくしんだか――
彼女を失ったのち、どれほど王が痛ましいありさまだった。

王の近くにいたものほど。
王が愛した唯一の花の記憶は、彼らの記憶の中に刻みこまれていた。

だから本人とうり二つの偽妃こそが王の愛した花だと信じた者たちは、
その女を盾に詰め寄る男たちを、誰もとどめる術がなかった。


しかし、国王は穏やかに前を見据えていた。

間近まで接近を許した賊を、情け容赦なく冷たい瞳で見下した。

その手は正確に、冷静に。
腰に帯びた剣に伸びる柄を握りしめる。
瞬間、ギラリと真紅の瞳に闇が注がれ、恐ろしい冷気があたりに満ちた。
「何をいっておる。馬鹿者が――」

王には、彼を阻む盾など、何も見えていなかった。


忘却の彼方に、置き去りにしてしまった、影。

何も感じない、何も見えない。
『夕鈴』という存在も、形も、時間も、なにもかも――。
彼にとって、それは虚無と同じだった。


そこに「妃」とうり二つの女がいようと、いまいと、
空気のように存在を感知していない彼の眼には、
ただ造反者の姿しか映っていなかったのだ。

そして王は振り下ろす。
酷薄な刃を――。


その場に詰めかけていた王の視察を待ちわび詰めかけていた民人は、目の当りにした。

「王は、元妃を、斬った――」

あたりは一瞬シンと静まり返ったあと、
こんどは地響きのようにうなりをあげ騒然とした。

夕鈴はそこに居た。
陛下が替え玉の妃ごと賊を粛清したそのとき、その場所に――。


*

忘却の岸辺(7)

やっぱり昨日は更新間に合わず。
某宅の睡魔ちゃんが最近ちょくちょくやってきて、私も連れていかれるんです…。

今回の陛下のように長い長い夜が欲しい?―――
…あ、でも。眠れないのは辛い。
やっぱり眠れて、なにより。

昼休みに急げ急げ。

【ねつ造】
忘れんぼ黎翔の元に忍び込む浩大のターン

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(7)
* * * * * * * * *

その晩、黎翔は眠れなかった。

床に入り、何度寝返りをうっても
安らかな眠りは訪れない。

黎翔にとり、闇は好ましいものだった

闇は汚れたものを包み隠し、
静謐にただ自分を受け入れ包んでくれた――。

なのに、今日は違う。

「何か大切なものが、あったはず――」

胸を押しつぶすように圧し掛かる想い。

何も見通せない闇は
チリチリともどかしい焦燥感だけを煽り、掻き立て
寝苦しさは増すばかりだった。

目と鼻の先にあるはずの己の手すら、見えない。
手を握り締め、その感覚を確かめながら
黎翔は昼間の出来事を思い返す。

 ***

目の前にいたのは、一人の男、
なのに
手ごたえは、一、ではなかった。

倒れた躯は二つ。
確かに、そう見えた。

頭の中の雑音が酷くて半ば呆然とした私ごと
駆け寄った側近が幕で覆い遮断した…。

 ***

造反者の粛清。
それ自体は黎翔の身辺では飽きるほど繰り返された景色で
「いつものこと」の一つに過ぎない。

いちいち呵責を感じる必要もない。

何かを選択すれば、何かを切り捨てる。

文字通り、切り捨てようと
それは国の安寧のための責務の一つ。

『王』は選ばねばならない、
選べる未来は、いつも一つだけ。

一方に良かれと選んだ結果は、他方に不都合なのだ――。
我らにとってたとえ一分の理もなくとも、彼らなりの理はあっただろう。
だが未来は一つ。
夢破れる者は確実に存在し、彼らの望む未来を失う。

やり場のない悲しみと絶望は怨恨を生み
恨みの矛先は『王』に向けられる。


力を実行するものは恨まれる。
その構図は、あまりにも単純にして明快だ。

国の継承者として生まれたものの宿業。

都合が悪ければ、処断し
始末が終われば、忘れる。

それは世を統べる者として
逃れられない義務の一つであった。

「生まれて死ぬ。
作っては、壊す。
世の中はその繰り返しだ――。
誰であれ、代わりはある。
代わりがない歯車など、自分も含めこの世にはない――」

黎翔は諦めにも似た境地で達観していた。

 ***

眠れぬ夜は長い。
シンと物音一つしない室内に一人。
黎翔は目を閉じ眠ろうと努めたが
意に反し、意識は混沌の闇の泥の中をあがくばかりだった。

『何かを選択し
何かを切り捨てた』

殺伐とした毎日に潜む、よくある出来事。
…だが今回だけは
どうしてか、後味が悪かった。


あれごときを引きずるほど
青臭い自分でもなかったはず。

では、何が

――衆目の前だったから? 
いや、違う。

――人々の目が、奇異な色合いを帯びていたから、か。

チガウ。

奇妙なのだ。

自分の内に、無い…記号。
空白のどこか、何かが欠けている。

黎翔には、考えても考えても分からない。

自分には
見えない何かがあって、
聞こえない何かがある、らしい。

光線の具合か、死角かといえば、そんなはずもない。
目の前にあるものが見えないなど、そんな不思議なことがあろうはずもないのに。
では、白昼夢? …にしては、たちが悪すぎる。
一瞬気を失っているとしたら、それは多分未だ体調が万全でないせいだろう。
高熱で寝込んだあと、自分の中で多少混乱ががあるのは承知の上。
体は元に戻ったのだから、あとは時間をかけるしかないのかもしれない。

「大丈夫だ――気にすることはない」
黎翔は、頭を振って、自分を落ち着けようとした。

でも、何か。
何か
大切なものがあったはずなのに――


何かを選択し
何かを切り捨てた……?

黎翔は
それすら思い出すことはできなかった。


* * * * * * * * *

寝返りを何度うったことか。
諦めに似た気持ちで、剣でも振るおうかと寝台から身を起こしたとき、天幕のそとから声がした。

「おい。――あんた」

「浩大か? …久しぶりだ」
黎翔はすんなりと『浩大』と自分の口から出たことが不思議だった。

浩大…たしか。
一年ほど地方に――地方?
いや――違う、王宮によびもど、し
なぜ私は、呼び戻した?

「…相変わらず、口が悪い、な」

浩大なら、なぜ、ここにいる

黎翔は再び混乱し、頭の中を音にならないノイズが占めた。
思わず目を固く閉じる。

浩大に関する何か肝心なものが抜けていて、
自分の中でつじつまが合わない。

混乱の最中の黎翔に、どこからともなく浩大の声が続いた。

「あんた――どういうつもりさ?」

「…?」

「俺に守れっていっておきながら
…アンタは、ためらいもせず、消すのかよ」

「なん、の――ことだ?」
黎翔は頭を押さえながら、掛け布を剥ぎ
浩大がいるであろうと思われる方に体を向き直した。

「アンタはあの時、替え玉と分かってて斬ったのか?
それとも知らず斬ったのか。
…もうあの子のことなんか、どうでもいいってか?」

浩大が何のことを言っているのか、黎翔は全く分からなかった。

寝台の幕を片手であけると、重たい空気が流れ込む。

暗闇の中に、ギラと鈍く光る二つの目が浮かんでいた。
森の中で野生の大虎と鉢合わせしたような、気迫を感じた。

「私が、お前に何を守れと言った……?」
黎翔は思い出せなかった。

そうだ、浩大は地方から王宮に呼び寄せて…
浩大に、何を守れと、私は言ったのだった――?
記憶の中には、何もなかった。

「汀、夕鈴――あんたの妃、だろ?」
浩大はつぶやいた。

「――何? 私の……き、さ、き?」
黎翔には肝心な言葉が聞き取れない。

砂嵐の向こうでザリザリとかき消されたように
ノイズが不自然に脳の端をよぎるだけ。

「なんの、こと、だ…」


浩大は、夕鈴の身辺警護を続けるため王宮を離れていた。
だからその間に起きた黎翔の異変については何も情報を持たなかった。

だが浩大には思い当たる節があった。

浩大の中にある拭い去れない光景。
その昔、黎翔の母が何をしたかを、浩大は知っていたから――。

あの時の記憶が、浩大の脳裏にフラッシュバックした。
じわりと汗をかく。

「はん。
そっか…。そういうことか」

浩大は鼻の下をこすり、顔をしかめた。

「――なぁんだ。
あんた、もう
夕鈴。
要らないんだな?」


「……お前が言ってる
×× が何なのか
私には。
分からない」

黎翔は頭をかかえて呻いた。

「じゃ――いいんだな?」

「諾否を問おうと…
私は何を――?」

「それすら分かんねーなら。
…今のアンタに資格はねえな」

「きさま、私を誰だと」

「王様だろ?
あんたは『王様』で
ひとつの未来を選んで、
ひとつの過去を捨てた」

「え?」

「……あんたはもう、
切り捨てちまったんだよ。
もう二度と知る必要はないサ――」

隠密は、目を閉じて、立ち上がった。

黎翔は手を伸ばす。

「――まて!?
お前は…」

黎翔は苛々とした。

「――じゃ、な。
王様。
あんたが切り捨てちまったとしても――
俺にとって命令は命令だ。
悪ぃけど
もうちっと、付き合ってくるぜ」

黎翔は浩大を引き留めようと立ち上がるが
隠密の身ごなしの方が早かった。

「――待て!」
黎翔は小刀を投げた。

隠密は指先でこともなげに飛んでくる小刀を空中で止める。
二本の指で挟んでいる良く研がれた刃物をチラと見つめると、浩大はため息をついた。

「ヘーカ。
…今のあんたが忘れちまったとしても、
あの子を二度切ることはないじゃんか――」

「あの、子?
――誰」

(ふうん、それは聞こえるんだ)
浩大は口角をきゅっとゆがめた。

「ヘーカ。
あんたが『おまえの命に代えても、あの子を守れ』って
そう言ったんだぜ――?」

黎翔は浩大を留める手を降ろした。

隠密は音も立てず、去った。


*

忘却の岸辺(8)

さてさて。更新が遅くなりました。
続きます。

【ネタバレ】【ねつ造】


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(8)
* * * * * * * * *

いつだったか…
遠くを見つめて、一瞬泣きそうなお顔をされているあなた
私は慰める言葉一つ持たず
どうしてよいのか分からなかった

あなたを一人にしておけなくて、
ためらいがちに手を伸ばす。

あなたは、私の存在に気が付くと
小さなため息をつきながら肩の力を抜いた。

ふっと頬を緩め、赤い瞳が私をとらえる。

もうあなたは微笑んでいて、悲しいそぶり一つ見せないけれど
その瞳の奥に潜んでいた悲しみが何なのか私は知りたくて
必死に覗き込んだ。

ギュッと私を抱き寄せたあなたの腕は力強く
それは「夫婦演技」という仮染めの役割と知りながら
小さな胸の痛みと、あふれそうになるあなたへの思いで
目頭が熱くなった。

「―――どうした?」

「いいえ、私は何も。へーか、寂しくないですか?」
「どうして? 寂しくなんかないよ。
君がいるから」
そういって、指先で頬に触れる私の指は赤らみ
「君の指先の、この血潮のぬくもりが愛しい」と握り締め、
優しく私の爪先に口づけを落とした陛下。

胸に灯るほのかな熱を絶対あなたにだけは知られたくないのに
「私には、君がいてくれれば、それでいい―――」

そういって、何度も何度も。
抱きしめて、笑って。
私の髪を梳いた―――。

陛下。
あれは、本当に、
ただの演技だったんですか?

* * * * * * * * *

昼間、目にしたショッキングな事件。
夕鈴の心は傷ついていた。

遠目だったし、全体が見えていたわけでもない。
人ごみに押されながら断片的にうかがえただけで
本当は何があったか、分からない。

すぐさま克右が彼の大きな外套で夕鈴を包み隠し、人ごみの中連れ出した。

気が動転していた夕鈴には、どこをどうやって連れ出されたか分からない。
ただ人ごみのただ中でもみくちゃにされながら、人々が口々に叫んでいる言葉が次々耳に飛び込む。

「国王が寵妃を斬った」
「ほれ、王宮から消えた妃! なんとこんなところに居やがった!」
「何か気に入らぬことをしでかしたのだろう」
「造反者と裏でつながっていたらしい」
「悪女は斬られて当然じゃ!」
「やっと陛下も目の前の曇りが晴れたのじゃろ!」

人々の噂は勝手な憶測で尾ひれがついた。

夕鈴は唇をかみしめた。
「陛下は―――私を斬ったんですか?」
「あんたは、何も気にするな!」
克右が低い声で叫ぶ。
軍人の克右は人ごみの中でも頭一つ抜きんでて体が大きく、外套にくるんだ夕鈴を抱きかかえるように連れて足早に安全なところへと移動した。
「ダンナ、こっち!」
浩大が遠くから呼ぶ。
チョロチョロ人に紛れて動き回るが、地の利、人の流れを読むのはさすがにうまい。

小半時も歩きまわり、ようやく人にぶつからずに歩けるあたりまで遠ざかった。
夕鈴をそれまで小脇に抱えるように密着していた克右は
ハッとして、思わず不自然なほど急によそよそしく距離を取った。

外套をはずすと、夕鈴は青白い顔をしてカタカタと震えていた。
浩大が馬車を操ってあらわれ、三人は街の宿屋まで人目を避けて移動した。

馬車に揺れながら、夕鈴は物思いにふけっていた。
二人は声もかけられずその様子を眺めていた。

彼女も含めた大勢の目の前で
国王、「狼陛下唯一の妃」―――正確には、「狼陛下唯一の妃そっくりの女性」を、ためらいもせず処断した。

一瞬見ただけだが、夕鈴も自分自身で鏡を見ているかと思うほど、
姿かたちのよく似た替え玉の妃だった。

その偽妃をためらいもせずに黎翔が手にかけたことに、彼女は大きな衝撃を受けていた。


『もう、私は要らないんですか?』
夕鈴は声なき声で叫んだ。

(―――忘れてしまえ、といったあの人。
その言葉通り、陛下は私のことなんて
すっかり忘れてしまったんだ―――)
と、夕鈴の胸には重たくその事実がのめりこんだ。


「何かの間違いじゃない? やっぱり、なんとかして陛下に会いたい」
という思いと
「今は、下手に動かない方がいい。
ましてや陛下とは、お会いしてはだめだ」という克右の言葉の両方で
夕鈴の気持ちは激しく揺れ動いた。


宿屋につき当りを注意深く見まわし
だれもつけていないことがわかるとようやく三人はほっとした。

部屋に戻って人心地付いた途端、
浩大はすっくと立ち上がった。

「軍人さんよ。あんたにものを頼むのは癪だけどさ
お妃ちゃんのこと、しばらく頼む」

それだけいうと、あとは何も言わず
ニカっと笑ってあっという間に浩大の姿を見失った。

夕鈴も克右も口にはしなかったが、
二人は同じことを想像していた
(きっと浩大のことだから。陛下の元に忍んで行ったに違いない)

(浩大が無事に陛下の元に行けたのなら。
陛下の様子を聞きたい―――)と何度も思った。

浩大がいない間、克右と二人で狭い部屋に夕鈴はいた。

若い娘の夕鈴の素性をごまかすために、
克右と夕鈴の二人は「夫婦」という設定で旅をしていた。

最初浩大が「オレがお妃ちゃんの旦那役、演るね」と立候補したのだが、
どうみても若作りの浩大は夫というには役不足だった。

それで、克右と夕鈴の夫婦に、従者の浩大、というパターンに収まった。

狼陛下御来臨の噂でこの小さな町の宿屋はどこもいっぱいだったから、
夫婦は宿屋の二階にある狭い一室に通された。
従者の浩大は少し離れた布団部屋だった。

「金は出す。もう一部屋用意してくれないか」
と克右は必死で交渉したが

「あいにく部屋がなくってね。従者に一部屋とは、贅沢だね」
「いや、つ、―――妻を。少し静かにしたくってだな…その。要するに、オレはイビキがすごいから、いつも別々の部屋で寝てくれって叩き出されるんだよ」
必死に話を作り、克右は頭をガシガシと掻きながら笑って見せる。
「イビキくらいなんだい! でもまあご夫婦だから多少狭くても勘弁しとくれよ。
かわいらしい奥さんじゃないか。今日くらいは仲良くおやりよ」
宿屋の女将はにべもなかった。

(―――あの方の…だからこそ、
オレたちと近すぎる場所で寝かせるわけにゃ、
いかんだろう?)
克右は冷や汗をかいた。

警護上のことがなければ、
克右が一人で野宿すればいい話だった。
だが今、浩大がいない。

身軽で小柄な隠密と異なり、
大柄な軍人の克右は身を潜ませる術には長けていない。

身近で守らねばならぬが、
あの人の……と、
同じ部屋で寝るわけにはいかない―――。

克右は頭を悩ませていた。

部屋の中央には衝立が置かれ、二人は部屋の端と端に寝台を離した。
しかし狭い部屋のこと、大した距離もとれず、寝間着に着替えるための衣擦れの音一つで顔を真っ赤にしている彼女を見ると克右は申し訳なくなるばかりだった。

「ちょっと、外で一服してきまさあ。
お嬢さんはゆっくり着替えて寛いでいてください」
そういいながら、克右は立ち上がった。

だが、彼女を一人にして遠くに行くわけにもいかない。
克右はドアの外でため息をついた。

浩大は宿屋の構造にあちこち目配せをし、確認をした。
いざというときに何があっても彼女だけは逃がさねばならない。

王宮から、狼陛下の唯一が消えた。
さまざまな手合いが、その妃の消息を躍起になって探している。

めぼしい場所には間諜がはびこっているだろう。
見つけたものには報酬が渡されるという話も聞いている。

今日、寺で起きた逆賊が、狼陛下の目の前に唯一の妃そっくりの女を引っぱり出した。
誰もが「唯一の妃」が狼陛下の弱点であると思っている。

斬られた女とよく似た女が
同じ場所の、すぐ傍にいる―――。

これはある意味、とても危険な状態だった。

克右は用心深く入口のドアに仕掛けを作ると、
そっとドアの内側に戻る。
奥の寝台を使っている夕鈴はすでに横になっているようだ。

克右は卓の上に置いてあった灯火を手に取り、そのまま入口の扉の前にどっかと腰を落とした。
胡坐をかき刀を肩にかけ腕組みをしている。

「克右さん、お布団で寝ないんですか―――?」
「ああ、今日は寝ずの番だ。隠密に約束しちまったからな」
克右は笑った。
「お嬢ちゃん、あんたはぐっすり眠りなよ。今日はいろいろ疲れただろ?」
「…はい」
「克右さん、本当にお布団で寝ないんですか?」
「気にするなよ。一晩や二晩寝ないくらい、オレはどうってことないから。
軍人なんて、頑丈なだけが取り柄だからな。
さ、あんたは寝てくれ―――明日は朝早い。
さ、明かりを消すぜ?
お嬢さんは、安心して休んでくれ―――」
克右は灯火を吹き消した。

「…はい」
夕鈴は渋々うなずき、布団を頭からかぶった。


*

忘却の岸辺(9)

お盆休みに入りました。
みなさまお元気でお過ごしですか?


【ねつ造】


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(9)
* * * * * * * * *

浩大は帰ってこなかった。

私は明け方まで、眠ることはなかった。
たぶん、それは克右さんも同じだと思う。

身動きすれば、克右さんが気遣うとおもったから
寝返りを打つこともできず、ただ息をひそめていた。

ふかふかの寝台の上なのに。
ジッとしていることがこれほど辛いとは思わなかった。

ギシリ、と扉の方に向きをかえる。

黒い塊のような人の姿が暗闇に慣れた目の端に入る。
克右さんはずっと扉の脇で刀を担いで座り続けていた。

「――ずっと同じ姿勢で、疲れませんか?」

私の声は、静かすぎる室内の中に、思った以上に大きく聞こえた。

克右さんは優しい目をして笑った。
「… 慣れてる」

私は守られることに慣れすぎていて
護る人の辛さを本当にわかっていたんだろうか――。

「ああ、お嬢ちゃん。もう起きてるんなら…話は早い。
悪いが身支度をしてくれるかな?」

「……? あ。はい」

強張った体をそっと伸ばしてみる。
あちこち凝り固まって、痛い。

克右さんは私に『おはよう』とは言わなかった。
お互い眼が醒めていることは知ってたんだったら
それならそうと、もっと早く声をかければよかった…。

ゴソゴソと衝立の裏で着替える。
「何か、あるんですか。今日は」
「いや、何だか。お客さんらしい」
克右さんも大きな伸びをした。

「お客さん? ――こんなに早朝に? まだ陽も上がってないですよ」
「陽の上がらぬうちに用のある輩、なんだろうな」

私は思わずビクリと震えた。
…それなら、と急いで着替えを続けた。

「浩大は?」
「帰ってこない」
浩大は気配を消すのになれているから、もしかしたら帰ってきているのに姿を見せないだけかと思ったけれど…。
「やっぱり? もう少し待った方が」
「いや、すぐここを出た方がよさそうだ」
「浩大、置いてくんですか?」
「…あいつのことだ、すぐ追いつくだろう」
克右さんは軽く屈伸をしたりして体を動かしほぐす。
テキパキと持ち出す荷物を手に取った。
「どうして、そんなに急ぐんですか」
「昨日、陛下を覗きに行った寺かなぁ…。後つけられたかもしれませんね」
「あと、を?」
「替え玉の妃――ありゃ、あんたにそっくりだったじゃないか。後宮の奥に咲く王だけの花――。
普通ならその顔さえ知らない妃とはいえ、知ってるものは居るってことだ。
そんであんたを探してる奴らは、血眼でそういう条件にあてはまる容姿の女を探してるってことで…。昨日、あんたをあそこに連れてったのは間違いだったかもしれん」
克右は頭を掻いた。
(間違いだった、かもしれん。あんなところを、お嬢ちゃんに見せるつもりはなかった――)
「……」
「とにかく、移動中、その伊達メガネは絶対はずさないでくださいよ」
机の上に置いてあった、黒い丸メガネ。
この旅に出る、と決めたあと届けられた荷物…荷長官が一式整えてくださった心配りの品の中に入っていた。

ああ…確かに。
王宮の掃除でも、こんなふうに変装してた。
でも、たとえメガネをかけていても、掃除婦の姿をしていても、
陛下はすぐ見破って…私をからかったっけ。

陛下ご自身、王都に下りるときはいつもメガネをかけていた。
メガネかけるだけで別人になれるのなら

陛下の「変装といえばメガネ」という習慣は、もしかしたら荷長官の元で育ったから?
それとも陛下がそうされてるのを知っていて、荷長官はわざわざ入れてくださったのかしら…。どちらにせよ、理解のある御方の協力があって、今の私の行動が成り立っている。

――みんなを振り回して――
私は何をしている?

その時克右さんが切羽詰まった低い声で急いで荷物を抱えた。
「――着替え中、すまねえ、ちっと急いでもらえるか?」
「はい」
私はその緊迫感に気おされて、昔の思い出にひたっていた頭をプルプルと振りはらう。

「こっちはダメだ。そっちから、出る」
「窓から?」
「二階の望楼の張り出し廊下から回り込んで、外に出よう」
「…はい」
克右さんが私にバサリ、と私に外套を被せた。
埃っぽい男物の外套は大きくて、引き摺りそうな長さだった。
陛下の香りと違う――と思った。

「すまん、少し我慢してくれ」
克右さんは申し訳なさそうな顔をした。

「いえ、すみません」
シュッと寝具のしわを伸ばして、立ち上がる。
ほんとうはもっと周囲の片づけをしたかったが、克右さんのそぶりから、それほど悠長な暇はなさそうだとあきらめた。

そっと窓をあけ望楼の廊下へ出てゆく。柱の陰から辺りを見回す克右さん。
「よし、こっちだ」
手招きされ、腰を低くして後に続いた。

まだ暗く、そろそろ明け方で東の空がほのかに明るくなりはじめていた。
馬車のつなぎとめた厩まで、静かに誰にも見とがめられず移動できれば――。

「だめだ、こっちは見張りが立ってやがる。馬は使えない」
仕方なく裏通りの方へ回り込む。

「こっちこっち。移れるか?」

克右さんが四つ這いになり大きな背中を踏み台にする。

わたしがどうしようか躊躇っていると
「遠慮せず、乗れ!」と克右さんが小さく鋭い声をあげた。

ごめんなさい、と謝りながら沓のままその背を踏む。

(人の背を踏む、というのは辛いことね――)とその時思った。

欄干を乗り越え、柱から大きな立ち木に渡る。すぐ後を克右さんが追いかけてきて、手取り足取り指示をだしてくれたので、穏便に枝伝いに目立たぬように地面に下りることができた。

「――こっちだ」
克右さんは用心深くあたりを見回し、先に進む。


私はどうして、ここにいるんだろう。
私の我儘で、この人たちをこんなところまで連れてきてしまった。

――浩大は帰ってこない。
克右さんは、足手まといの私を連れて逃げている――

浩大は国王の身辺を守る隠密で、克右さんは軍部や諜報部といった部署で
国王がその腕を見込み頼りにする、有能な人たち。

その人たちが、庶民の私のワガママに付き合わされて、身を挺す――

土足の沓で踏まれようと、その誇り高い背中を差し出し。
昼も夜も私を守るため、固い床で座って明かす…

 わたしは妃じゃないのに――?

そのとき、克右さんに着せられた大きなマントの裾を踏み、
私はつんのめってしまった。

「…おいっ、気をつけてくれよ!」

克右さんが慌てて私を助け起こしに駆け寄る。

四つ這いから膝立ちになり両手に食い込んだ砂利を払い立ち上がる。
パンパンと膝の前についた泥を叩く。

「……ごめんなさい」

伊達メガネごしに自分の手がにじんで見えた。

「急ごう」
克右さんが手を差し出した。
――一瞬、陛下の手のように見えた。

…おいで、ゆうりん!

あの人は笑って、かろやかに手を差し出した。
あの人と居れば、どんなことも怖くなかった。


だけど今はなぜだか、怖くて、悲しくて。
前に進むのが辛かった――。



*

忘却の岸辺(10)

お盆、みなさまご家族と静かにお過ごしくださいませ。

【ネタバレ】【ねつ造】

辛いことは重なるもの。

逃避行の最中の、それは冗談の慰めか、優しさか。
【克右×夕鈴】のターン。
※CP注意

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(10)
* * * * * * * * *

運よく辻馬車を拾うことができた。
だがしばらく行くと、克右は
「ああ、すまん。そこで降ろしてくれ」と言って、すぐに乗り捨てた。

元妃を安全な場所まで連れ戻すことが最優先だった。
克右はできうる限り注意を払った。

途中人通りの多いところを徒歩で通り抜け、わざと急に店を冷やかすふりをして立ち止まり、緩急をつける。不審な行動を取る尾行がいないかどうかを確認する。またどこへ向かったか形跡を残さないため、辻馬車は方向を何度も変え、乗り継ぐ。
軍部の加え諜報部の経験が生きていることに、克右は苦笑した。

少し歩いて遠ざかり、また離れたところで馬車を拾う。
そんなことを何度か繰り返し、途中で克右はふいっと大きな宿屋に立ち寄った。

「大きな宿ですね。今日はここに泊まるんですか?」

「いや、ちょっと用事があってな。
すまんが一緒に来てくれ」

物珍しそうにあたりを見回す夕鈴に、克右はひそひそと耳打ちした。

「…すまんが、あんまりキョロキョロしないでくださいよ?」

ああ、そうだった、と夕鈴は恐縮し、目立たぬよう外套を目深にかぶって伏し目がちに克右の後ろについてゆく。
そこは駅伝の宿泊設備や交通手段としての馬つぎを提供している大きな宿屋で、逓送(ていそう)物も扱っていた。

店に入ると克右は
「ちょっとここに座っててください」
と一角に置かれた椅子を指差し、思い出したようにさらに付け加えた。

「…絶対、誰に声かけられても相手しないように。
もちろん、他人のうわさ話なんぞに、くちばしなんか挟まないでくださいね?」
と念を押した。
潜入調査で、二人で飯店を回ったとき、狼陛下の悪口を聞けば片っ端から説教に回った彼女のことを思い出して、克右はそう付け加えた。
身に覚えのある夕鈴はコクコクうなずいた。

克右は奥を覗き、店の主人に声をかける。
すると主人は一旦奥に引っ込み、手には小さな紙包みをもってきて、克右に渡した。

克右はサイフを取り出し、金を渡す。
それから隣町に行く馬車はないかと尋ねた。

そんな調子で、塩梅よく隣町までの定期便の荷馬車に乗せてもらう手筈を克右は整えた。

「さ、行きましょう」
用事が済むと、克右は待たせていた夕鈴に声をかけ、店を出た。

馬車が発着する広場までの途中、人気の少ない立木の下で克右は立ち止まった。
そしてやおらさりげなく夕鈴の死角に入る。
くるりとあちらを向くと、素早く手にしていた小さな包みをあけた。
しばらくうつむいて何かを熱心に見ると、すぐにガサガサと荷物を包み直し、懐にぎゅっと入れた。

克右はむつかしそうな顔をし、唇を噛んだ。

宿から逃走するため被せられた克右の外套を相変わらず夕鈴はかぶっていた。
伊達メガネをかけ男物の外套の隙間からそっとその様子を見ていた。

克右の渋顔をみて、夕鈴は様子がおかしいと感じた。
「どうか、しましたか?」

「…いや? 荷馬車乗り場はもうすぐで―――」
克右は声をかけられ笑ったが、その様子は無理しているようにも見えた。

「あの。何か…?」

夕鈴が重ねて尋ねようとしたが、その時克右は急に大声を出して、広場の反対側に止まっていた馬車を指差した。

「あの馬車だ! 急ごう、もう出発するみたいですよ」
二人は慌てて馬車に駆け寄る。

幌をかけた狭い荷馬車の中で、二人は向かい合わせに座っていた。
荷物の隅に乗せてもらっていることもあり、窮屈なのは仕方がない。

克右に額をよせ、夕鈴はヒソヒソと話しかけた。

「……あの。何度も辻馬車を乗り換えたりして。
ずいぶん用心深いんですね」

「まあ、なあ」

「さっきの宿屋さんで、何か受け取ってました?」

「ああ……うん。そうだな。
土産物を一つ」

なぜか克右は言葉を濁した。

「土産物って、それ。
浩大からの―――連絡、でしょ?」

夕鈴は思い切って言ってみた。

「…どうっていうことのない土産ですよ」
克右は懐のそれを手で押さえると、ことさらに明るく言って見せる。

「浩大からの―――でしょ?」

「―――ええ」
克右は仕方なく、認めた。

「何て…?
浩大はどうしたの? どこにいるの」

「さあ、そいつは分からんなぁ」

「じゃあ、どうしてそんなものを?
何かの連絡手段じゃないんですか?」
夕鈴の矢継ぎ早な質問を受け克右は返答に詰まった。

「教えてください?」

夕鈴は、強い口調で望んだ。

「うーん」

「浩大はなんて? 
……私には、言えないこと?」

「できることなら。教えたいとは思わんね…
実のところ」

「克右さん。
私は自分の足で立って、
自分の目で見て
自分の耳で聞きたいんです…。
もう隠し事はしないでください。
どんなことであっても
何事も、己の目で見て理解し、
判断すべきと―――私はあの方に教わったんです」

「……そうですよ、ね―――」
克右はため息をついた。
ついに観念して、小さな紙包みをあけた。

「旅先で夫婦がちょっと買うようなもんで。特に珍しいもんじゃあないでしょう」

それはどこにでもあるような小さな土産物の魔よけの壁掛けで、それ自体はどうというものでもなかった。

「それだけじゃないでしょ?」

克右はもうこれ以上抵抗はしなかった。
結び紐の房の中に、細く巻いた薄い紙が入っていて、克右は大きな手で器用にそれを取り出し、広げる。

「三日後、例の場所で落ち合えなければ、気にせず先に戻れ。
あの方は薬の力で己の中の記憶を消した。
彼女の姿形はもちろん、存在すら認識できない。
すべてを失った」

夕鈴は言葉を失った。

しばらくたってようやく声を絞り出す。

「……これって
どういう、意味ですか?」

「さあなあ。書いてある通り…
細かいことは、オレにも分からん」


「―――すべてを失った?」

夕鈴は青ざめ、カタカタと震えた。


―――忘れてしまえ…

そういったあの人が
一番傷ついた目をしていた。

私を突き放したくせに、
優しく私の涙を唇で拭った


「……なあ、娘さん」
思い切ったように克右は夕鈴に声をかけた。

「は?」
克右はすぐに視線をはずし、馬車の中で自分の足元をじっと見つめていた。
馬車の中は狭く、向かい合わせの席は思った以上に近い。


「この旅を無事終えることができたら
―――」

「はい?」

「嫁に、来ないか?」

「―――え?」
突如突拍子もないことを言われた夕鈴は、一瞬頭が空白になった。

「ま、なんつーか。
参戦してみよっかと」

克右はニカっと笑った。

「じょ、冗談はよしてくださいっ、こんなときに―――!!」
夕鈴は体から火が噴くほどの思いで肩を震わせた。

「こんなときだから、さ―――
ナンパしてみよっかと。
おっと?
オレ達、旅の夫婦だったか…そっかそっか
ナンパする必要なかったな」

カラカラと克右は笑った。

「こ、克右さんっ
克右さんは大人だから!
そういうタチの悪い冗談、こんな時にスラスラ出てくるんですね
…冗談か本気なのかわかんなくて
一瞬、焦りました!」

「…まあ、娘さん、元気だしてくれや。
まあ、そうだな。
また、いつか。
その気になったら、ホンキにしてもらって構わん」

視線をはずした克右の横顔を、夕鈴は穴が開くほど見つめた。

(―――え?)

夕鈴は狭い馬車の中で、ぐるぐると目が回る思いだった。


*

忘却の岸辺(11)

お盆を故郷で過ごされた皆様も
東のお祭りをご堪能された皆様も
お元気ですか?


【ねつ造】

陛下は夕鈴を忘れ
浩大は幻となった言葉を胸に
克右は花の盾となる

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(11)
* * * * * * * * *

夜闇にまぎれ王の元を離れた浩大は
予てより克右と約束していた手段で連絡を取ることにした。

すぐに夕鈴や克右の元に合流せず、連絡を取ることを選択したのは、
本能的に『今戻ればヤバい』と察知したから。

背後から嫌な感じがする。
浩大は敏感だ。

浩大は目立たぬ町人の格好で用心深く人に紛れた。
ことさら目立たぬ体格、年齢が一見して分かりにくい童顔はこういうとき便利だ。
忍びのくせに顔を平気でさらす、と言われたらそれまでだが
むしろ隠さない方が自然、それほどに目立たぬということもある。

個人的技芸に秀でた浩大は単独行動を得意とするが
集団行動が嫌いというわけではない。

ただし、それは組む相手によりけりで
軍部所属の克右は、忍びの浩大にとっては反りが合わない。

組織が違うから、やり方もお互い気に食わないのは仕方がない。
なにしろ、請け負うものがそもそも違うのだ。

だが、仲間として組むのは、正直面白くはない、と思いつつ
今回の「お妃ちゃんを守る」という仕事に関しては
仲間がいることは頼もしく
それが腕の立つ軍人であればなおさらだ。

あれだけ内外に敵の多い人の唯一の弱点。
それを何としても手に入れんと躍起になっている輩が相手。
手段を選べず修羅場に突入することも覚悟していた。

依頼主である国王本人がその命を出したことを忘れ去っている現状、
宙ぶらりんになってしまった「彼女を守れ」という過去の命令のため自らの命を張るというのは浩大にとってすでに意地に近い。

「だけどさ。
あんときの言葉を。いまさら。
―――忘れちゃった、はいそうですか。
じゃ、あの子のことは放っておきます―――なーんて。
口が裂けても言えるわけねーじゃんかよ。
何があっても守り抜く…そんな律儀なオレだから。
ヘーカ、あんた。オレに頼んだんだろ?」

浩大は独り言ちた。

浩大は短い手紙をしたため、
そのあたりで手に入れた土産物の中に埋め込むと、克右と約束していた連絡手段通り、
駅伝を扱う宿場に届ける手はずを整えた。

つけられている。
それも複数。

「オレってば、有名人になったもんだよな―――」
浩大は鼻の下をこすった。

さて、大人しく見逃してくれるかどうか…。

浩大はニヤリと笑うと、闇にまぎれ駆け出した。

* * * * * * * * *

夕鈴は、荷馬車で克右と向き合い、息詰まっていた。

おもむろにかぶっていた外套をぐっと手でかき寄せ、顔をうずめた。

「……違う」
「は?」
向かいの席に座り、目を合わさぬようそっぽを向いていた克右が問い返す。

「違います、違いますよ。克右さん。
同情して、勢いで。
そんなのダメです。
『―――冗談だよ』って。いつもみたいに、
笑ってください!」

夕鈴は泣きそうな笑顔で、克右の外套を脱いだ。

違う。

私は、克右さんの優しさに甘えているんだ。

誰かの影に守られて、自分だけ良ければいいって―――
そうじゃなくて。

『私は、陛下の役に立ちたい』
って―――
まだ今でも
未練がましく思ってる。

『あなたの味方ですよ』っていいながら、
忘れられて、他人みたいに知らんぷりされて
一人前に傷ついてるなんて。

私は何の見返りを期待していたんだろう。


なんでもできる あの人に
何をして『あげる』なんて、偉そうなこと考えて

不器用なあの人に
優しくして欲しくて


あの人に振り向いてほしくて―――

未練がましくて―――

馬鹿で―――


(…克右さんの優しさに、甘える自分がいやだ。
そんな資格なんて、ない)

夕鈴は克右に借りた外套を脱ぐと、きちんとたたみ、克右の膝に乗せた。
伊達メガネをはずすと、克右をまっすぐに見つめた。

「克右さん。
わがままいってすみませんでした
―――私が勝手に自分のやりたいことして
みなさんを振り回して
みなさんに迷惑かけてたんですね?」

「……いや、そういうことは…。
どっちにしろ、あんたが何かに利用されるようなことがあれば
あの方にとって―――」
どう言ったもんか、と克右が苦慮しているのが夕鈴にはわかる。

「もう、私は妃じゃないです」

もともと、バイト妃ですから。
そもそも妃なんかじゃなかったんですけどね。

小声で夕鈴は付け加えた。

「ああ、そうだな」


「あの方は、私のことを忘れたと」

「…」
克右は困った顔をした。

「忘れられたっていい。
私は忘れません―――」

そうキッパリ言いきると、
夕鈴はにっこり笑った。


その時、すぐそばでけたたましい叫び声があがった。
ガタンと馬車が大きく弾み、衝撃に思わず夕鈴は脇の荷物にしがみついた。

周囲から複数の蹄の音が聞こえ、馬車の馬の足並みが急に荒立った。
馬は狂ったように暴れ出し、夕鈴たちの乗っていた荷馬車は右へ左へと大きくかしいだ。

「きゃっ!?」
慌てて克右が夕鈴に覆いかぶさる。

暴走する馬は気が狂ったようにいななく。
馬車はそのままガタガタと跳ねるように大きく街道を外れ
ひっくり返りそうになりながら側溝の段差をガクンと乗り越えるのが分かった。

荷馬車は大きく傾き、克右の大きな体で庇われながらも夕鈴は体が斜めに滑るのを感じ
馬車はようやく止まった。

「くそっ!」
克右は夕鈴を守るので精いっぱいで、チッと舌を鳴らした。
「―――」

バサリと馬車の幌が乱暴に捲られ、
二人は白昼にさらされる。

「荷物は―――女、か。
おい、お前。
顔をみせろ―――」

数人の騎馬の男たちが取り囲んでいた。
覆面をし、武器を手にした黒っぽい服装の男たちは、一見してマトモな者たちではなかった。

克右は腰の刀に手を伸ばしていたが、多勢に無勢。
四方を敵に囲まれ、夕鈴をかばう克右は形勢的には不利であった。

夕鈴はすでに顔をさらしており、逃げも隠れもしなかった。

暴漢のカシラと思しき人物が柳葉刀の刀尖を克右の喉元に突き付け近寄った。
「おい、その女を寄越せ」
克右は恐れる風もみせず、その刀尖を指でチョイと押してどけた。

暴漢らに取り巻かれたこの期に及んで、
一切おびえるそぶりも見せず、
カシラの顔を睨みながら平然と答えた。

「すまんが―――それはできない相談だ。
大切な嫁さんなんでね」

「なっ!?」
夕鈴は克右の人を小ばかにした言葉に一人反応し、真っ赤になった。
(…って、ああ。そういう設定、だったかしら)と後から思いだすのだが。

「―――ほう、肝の座った男だ」
カシラはズイと一歩詰め寄る。

克右は夕鈴を押し下げ間合いを保つと、腰の刀を手にした。

「…ヤル気か?
五対一。どう考えても、貴様に勝ち目はないぞ?」

「勝ち目があろうとなかろうと―――」
克右は刀を振るった。
「やらなきゃならん時は、あるさ!」
克右はその大きな図体に見合わぬ素早い動きで夕鈴を荷馬車の床に押しつけるように伏せさせ、刀を振るってカシラに飛びかかった。

カシラの腕にツツウと赤い筋が走る。
ひるむ間もなく第二波、第三波の攻撃を繰り出す。

克右の鬼気迫る形相は他を圧し
そのあまりの腕前に周りの者たちは気勢をそがれる。

ガタガタと大勢を崩し尻餅をついたカシラは、手をこまねき取り囲む手下にハッパをかけた。
「男をやれ!
女には傷をつけるな―――!」

「…なあるほど」
克右はフン、と鼻を鳴らすと
「やっぱり…そっちの筋の―――」

「黙れ!」

克右は片手に刀を構え血走る眼で対峙した。



*

忘却の岸辺(12)

痛くて辛いお話に、お付き合いいただき恐縮ですが。
やっぱり今回も痛くて辛いお話なのです。
どうか皆様は、元気で健康的にお過ごしくださいませ。


【ねつ造】【痛い痛い】
※陛下の過去の話をねつ造しています。
直接的な暴力シーンはありませんが、非常に血なまぐさいお話です。
特に浩大が盛大に流血していますので苦手な方はご注意ください。

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(12)
* * * * * * * * *

暗闇の淵の中をゆるゆると意識が登ってきた。
それとともに指先の激痛が襲ってくる。
(……チっ。何枚剥がされたんだっけ?)

鼻先にタラリと滴った液体がカサカサの唇を湿らせた。
ペロリと舐めれば塩っぱく鉄臭い、独特の味がする。

(あーあ。眼が覚めちまった)

浩大は混濁する意識の底から這いあがる。

指先だけでなく本格的に体中から一斉に激痛が湧きあがった。
重たい身体に力を入れ、首を動かそうとすると、あちこちが軋むように痛む。

「目が覚めたか?」

聴き慣れた声に、浩大はスンと鼻を鳴らし返答した。

「あんたが看病とか――ずいぶんとゴーカな待遇だね、今度は」
浩大は乾いた声でククッと笑い、ゴフッとむせた。
しばらくゲフゲフと辛そうな咳をし、「いちちっ」と文句を言いながら気管に詰まった痰を吐いた。
胸が大きく上下し、ようやく呼吸が整う。

黎翔は顔色一つ変えず浩大を見下ろしていた。

「…お前としたものが。ずいぶんと甚振られたものだな」

「早めに意識を失った方が上等だろ?
口を割れば即、お迎えだし。
……口を割らなきゃ、まだ次がある」

浩大に命があるということは、敵に情報を与えていないということだ。
黎翔は目を細くし憂いを含んだ唇の片端を吊り上げる。

目の前の浩大はボロボロだった。

浩大は敵の隠密に捕らえられ拷問を受けた。
それは殺すためというより、彼が知り得た情報を、なんとしても口を割らせるため、最大限の苦痛を与える類のものだったようだ。

「お前が持っている情報は――、
それほどに魅力的なものだったのだな」

単独行動していたとはいえ、浩大を捕縛できる力量の隠密らを抱えているという時点で、かなり大きなバックが付いていると考えられる。
大貴族か――人を殺めることを生業とする腕の良い輩を雇い囲えるだけの財力のあるもの。

浩大を助け出し取り戻したのは黎翔付きの隠密だった。
黎翔が失った自分の記憶の鍵を握る浩大に追っ手を掛けてたのが逆に幸いした。
浩大救出のために大勢が血を流し、手加減もできず敵は皆、息絶えた。

「あんたも訊きたいんだろ?
――おんなじことを」

確かに、黎翔こそが、
浩大を責め立て拷問を加えてでも、吐かせたかったのだ――。

一旦は冷静さを装い、見逃した。
だがどうしても湧き上がる焦燥感に耐えられなくなった。
――だから、追っ手をかけた。

浩大が真夜中に訪れて以降
不整合な自分の記憶について
イライラともどかしい思いに黎翔は炙られ続けていた。

私の失ったものは何か
浩大は私の知らない何を知っているのか

「相変わらず。
血なまぐさい業を置き去りには出来ぬのだな
私は――」

浩大。
目の前にして思う。

すさまじい拷問を受け、それでも口を割らなかったお前は
何に忠誠を立てた――?

過去の私か。
それとも
私の失った記憶を守るため?

だとすれば
唯一の主たる私にすら渡そうとしないお前は、有能な守り人だ。

私はそんなお前を信じたのだろう。
失う前の私は、そうしたのだ。

「……」
黎翔は長い間沈黙した。

浩大はお岩さんのように腫れた片目を指で触れ、瞼を開けて目が見えることを確認する。
爪をはがされ腫れ上がった指先はそれでもまだ肌の感触を伝えた。
「オレで済むなら、まだいい――」
浩大はペッと口の中の泡にまみれた固いものを吐きだす。

「――行ってやんないと」
寝台から上半身を起こした浩大は黎翔を真正面から見返す。

「私は、……何を失った?
お前はそれほどまでして
なぜ行く?」

「――知りたい?」
浩大の腫れあがった不気味な顔を更に凶悪にゆがめた。

「……」

複雑な表情をしていたくせに
黎翔の瞳があまりに透き通って見えた。

浩大は、あの日、母の死を見送った少年の眼を思いだした。

今のあんたが。
以前のあんたとどう違うかなんて、わかんね。

だけどさ――
オレ。

やっぱり、
アンタのことも
あの子のことも
放っておけないのかもしんないな…。

浩大は、せっかく起こした上体を、もう一度力なく床に横たえた。
胸の上で腫れあがった血まみれの手を組むと
ジッと痛みをこらえるように目を閉じた。

「忘れたくて、忘れたくて――。
あんたが何度も悩んで、悩みぬいて。
あんたは、あの薬を飲んだんだ――」

「薬?」

「昔。むかーしのことだ。
あんたの母親が手に入れた、秘薬だよ」

「ははう…え?」

「忘れちまったか?

あんたとオレは、あの日、見ていた。
長い間病気のように伏し、痩せ衰えた舞姫様が。
……オレたちの目の前で。
商人にひそかに取り寄せさせたあの毒薬を。

いとおしげに指でさすり
すがるように見つめ
瓶のふたをあけ、口をつけ、半分を飲み干した。

毒はすぐに舞姫様の体をめぐってさ――
地獄だった。

…この世でこれほどの苦しみがあるものかと
オレ、あんな恐ろしい景色って見たことなかったんだわ――。

子どもだったあんたの前で。
苦しんで、
苦しみぬいて
のたうち回ったんだ。

国一番の美女とまで言われたあのひとが――

それから一か月、苦しんだあげく、
ようやく舞姫様は、一つだけ
ささやかな願いをかなえた。

たった一つの記憶を手放して。

毒に蝕まれ、
最期は衰弱して息を引き取ったよな…
そんなことまで…あんたは忘れちまったのかい?」

「母うえ…が…?」

「あんたは同じ穴のムジナだ」

あの人が忘れたかったことはなんだったのか。
そこまで浩大は口にできなかった。

あの時。
あの人は
失った。

――黎翔 という何もかもを。

我が子という
この世で何にも代えがたい、大切なものが

この世で一番大切で
一番愛しい
一番必要な存在が

彼女にとって
生きてゆけないほどの苦しみをもたらしていたから…。

あの人は、悲しみと、苦しみから逃れるため
手放した。

黎翔という、何もかもを。

目の前に居ても、見えない。
声を、聞かない。

文字としても
言葉としても
絵姿をみても、
見えていないふりをしていた、あの人。
涼しげに、透明な顔をして笑っていた。

――いや、あれは、見えない振りじゃない。

「黎翔」という情報の何もかもを失って、
認識していなかったのだ。

それはあたかも空気か水のように透けて
彼女の脳は「黎翔」という情報を認知できない廃人になったのだった…。


「母の無残な死の戒めに…と
残り半分の薬を
あんたは、持っていたんだよ。
あんたは
あんたの母親が選んだ道を
あれほど侮蔑し、恨み、後悔していたくせに。
同じようにアレを飲むことを選んだんだ――?」

浩大は目を開けた。

「――そう だった の か」
黎翔は難しい顔をしながら神妙に聞き入っていた。

「そんな風にしてさ。
死ぬ思いで選んだ手段で、必死になってようやく忘れたのに。
――今更じゃん?
なあ、ヘーカ。
あんた
本気で、それ、知りたいのかよ?」

浩大は、傍らの黎翔をにらみつけた。
浩大の燃えるような挑戦的な瞳を直視し、
黎翔は自問自答した。

知りたくない、といえば嘘になる。

以前の私が、そこまで思いつめ、
命を天秤にかけ、正常とはかけ離れた方法を選択してまで
忘れたかったものとは――何なのか

知りたい

だが知りたくない。

「知らないから、今あんたは楽に息ができるんだ」

「…あ?」

「あんたは、楽になれたんだよ。

大事すぎて
大事すぎて
切り捨てなきゃ
あんた、死ぬ以上に苦しみ続けたんだ――

それでも、知りたいのか?
――覚悟あんのかよ」

「覚、悟?」

「アンタ、生きる気があるかって
聞いてるんだ!」
浩大は怒鳴った。

「生き…る 気?」
半ば唖然とした表情で黎翔はその問いを復唱した。

「――だろ?
だって。
オレにはさ、あんた。
自分じゃ無難にやってるつもりかもしんねーけど。
全然、生きてる風に、見えねーんだもん
あんた
何のために生きてるんだ?」

「そう、だな――
今の私は
ただ死ぬまで
この世に在る体なのかもしれん」

黎翔はクククと自嘲的に笑い、
やがて肩を大きく震わせて笑った。

笑いが収まると、あたりの雰囲気は一転した。

浩大は背中にゾクリと走る冷気を感じ、
一瞬身を縮める。

紅い瞳は浩大を圧し
飢えきった狼陛下が顔をもたげた。

冷静かつ酷薄な表情で舌なめずりすると
短く鋭い命令が発せられた。


「聞かせろ――浩大」


*

忘却の岸辺(13)

失っても、見失わない夕鈴。
無くしたものを探して、旅に出る黎翔。

本当に大切なものは、目には見えない――by さん・でぐじゅぺり


【ねつ造】
※夕鈴は元気に暴れてます。陛下も無気力から脱出傾向。

* * * * * * * * *
忘却の岸辺(13)
* * * * * * * * *

夕鈴は必死に馬の背にしがみついていた。
普段馬になんて乗ったことないから、あちこち痛み、辛いが
夕鈴にはそのように贅沢なことは言っていられなかった。

任州に滞在していた夕鈴たちの耳に隣州まで国王が来るという噂は届き、
一目見ようと視察がてら立ち寄るという寺まで覗きにいったのだが

夕鈴たちの目の前で、元妃そっくりの替え玉が引き出され
国王は妃の存在に気づかず、謀反者の成敗の際、一緒に手にかけてしまった。
民衆の目の前で起きた出来事は
多くのものは人々は狼陛下の恐ろしさを目の当たりにし、
また妃を探すことに躍起になっているその筋の者たちには
妃の容貌に関する余計な知識を仕入れさせることになった。


身辺警護についていた浩大は、夕鈴を克右に任せると言い残し姿を消し、
克右と夕鈴は宿を襲われ、身を隠しながら逃げている。

注意深く逃避行をする二人は隣町までの移動にようやく荷馬車に乗せてもらい落ち着くが
その荷馬車は賊に襲われ、手綱を握っていた馬主は不意を突かれ命を落とした。

克右の不意打ちの告白に動揺しながらも、夕鈴は自分の中に「誰かに嫁ぐ」という選択肢はなかった。

忘れられようと、忘れたくない。
それは人がどう、ではなく、自分の覚悟なのだ。

忘れたくないのだから、他はない。
それよりも、周りの人たちを危険に陥れているのは、自分という存在に他ならなかったし
今ある目の前のことに対して、必死に対応してゆくことが先だった。

克右が背で夕鈴をかばい、単身で五人に立ち向かったとき
夕鈴はただ守られるだけでいていいわけがない、私にできることは――とすぐさま頭を巡らせた。

荷馬車から転がり落ちた台の影に、押し付けられるように伏せさせられた夕鈴は
必死に手探りであたりをかき回す。
手ごろな木箱があった。ツボでも入っているのだろうか、かなり重たい。
夕鈴は構わず立ち上がると、よっこらしょと重たい木箱を持ち上げた。

賊のカシラと、馬に乗った手下の二人と対峙していた克右はぎょっとした。

目の端に、頭上高々と重たそうな木箱を持ち上げ仁王立ちしている夕鈴の姿をみて思わず
「おい、伏せて――!」と克右は叫んだがその時にはすでに遅く、
夕鈴は克右の方めがけて、思いっきりそれを投げつけた。

木箱は克右の左側にいたカシラに見事命中し、ガツン、ガチャンと音がして地面に落ちて箱が割れた。
昏倒したカシラを助け起こそうともう一人が馬から飛び降り、駆け寄った。
夕鈴の投げた木箱の中には油ツボが入っていたらしい。
木箱は当たった衝撃でバラバラに壊れ、中のツボが割れてあたり一面油が飛び散り、助けに入った男は油に足をとられて滑った。

「おっ、おい…! …やってくれるな」
ニヤリと笑いながら克右はすばやく懐に手をいれると、火打石を取り出す。
横に飛びずさりながら手際よく火花を起こし、火種を移した一つまみの綿花をポンと投げると、ボッと音をたてて炎が回った。

荷馬車と賊の間には炎の壁ができ、五人の男たちがひるみ、どう仕掛けようかと考えあぐねているとき、夕鈴は敵のカシラが乗ってきていた馬の手綱を握っていた。

「克右さんっ! 逃げましょう!」
克右はもう一人の賊の乗っていた馬を素早く捕まえ振り向く。
腰まで裾をめくりあげたズボン姿の夕鈴が、鐙に足をかけ自力で必死に馬によじ登っていた。

「やるな」
「…だいぶこの間の旅行で乗り降りだけは、なんとか――」

「よし!」
二人は馬に乗って駆け出した――。


カシラの馬は足の速い賢い馬で、夕鈴は素人ながらただ乗っているだけで克右の馬を追った。
夕鈴は手綱を持ち、舌をかまないように口を食いしばって馬の背に必死につかまるので精いっぱいだった。

「軍馬、だな、まるでこりゃ」
克右はつぶやいた。

並の野党が乗るような馬ではない。

「やはり――」
諜報活動の任についていた克右には、一つ思い当たるふしがあった…。

* * * * * * * * *

「――ご苦労。

分からないということが
だいたい、分かった――」

賢い王にすら「空白」そのものの存在を教える術はなく
もともと教師向きというわけでなく、
負傷中であちこち痛めつけられた浩大にとり
頭脳的労働はあまりに不向きで荷の重い役割だった。

「ま――。今はそんなもんで許してヨ
オレさ、あっちが心配だから。
そろそろ行きたいんだけど――」

「その体で、か?」
黎翔はピクリと眉を吊り上げた。

「あんたの命令、だろ?」

「忘れる前の、私の――だ」

「じゃ、いまのあんたは
反対すんのか?」

「――否。
おまえの好きにしろ」


* * * * * * * * *

「…で、なんであんたがついてくんだ?」

「私の好きにさせろ」

「…っち。あんたいつも
好き放題やってるじゃん――」

「浩大! ――少し口を慎みなさい」
隣に座っていた李順がいさめる。

浩大は口では憎まれ口をたたきながら、
包帯だらけの指で鼻の下をこすりながら、少し眉尻を垂らした。

「…あんただけじゃなくてさ。
なんでゾロゾロついてくんだよ
あんた大事な視察中じゃなかったのか?」

「…その先に用事ができた。

少し先に足を延ばす――
あくまで仕事だ」

「――とはいえ、かなり強引な」
李順はよほどやりくりが大変だったのだろう。
各種調整で奔走させられた殺伐とした表情が未だ抜けきっていない。

今回、黎翔は忍びではなく、公的なオプションとして、側近の李順、政務室の数名、身辺警護の兵らを率い、馬車に浩大を乗せて移動をしていた。

用事というのが、黎翔に届けられた書簡の内容に係わることだろうと浩大はうすうす感づいている。

「…とかいいながら。
万が一のプランとして、李順さんの頭脳にはちゃんと入ってたんでショ」
浩大は頭に手をあてて、目をつぶった。

「隠密のあなたが国王の馬車に乗って移動するなど、
まったく想定外でしたよ」
(仕事もせず、まったく――!)
李順は厭味ったらしく答えた。

「…怪我人だ。目をつぶってくれよ」
哀れっぽい声で浩大はわざとらしく弱々しいそぶりをしてみせた。

「王宮の悪巧みも
私の失せもの探しも
お前の使命も。
すべての運命は、この方角を指差した。
吉と出るか凶と出るか
――鍵となる旅になろう」

黎翔はつぶやいた。


馬車は任州に向かう。

その先には蓉州。
世継ぎ問題で揺れる王宮が真っ二つになって論議している「王弟」が住んでいる地だ――。

政務室の数名の中には、外交を得意とする氾大臣の名代として長男水月が。
そして今一方、双璧の柳大臣も黙ってはおるまいと次男の方淵を同行させた。

それは地方視察に同行させ、研鑽を積まさせるためという理由であったが
本来この顔触れからして、単なる地域視察に同行するには珍しい人選だった。

「予定にないとはいえ、この『突然の予定変更』はみな腹積もりしていたことだろう。
私がここまで来たのだ――。
王宮の連中は、その先に足を向けるはずだと内々ヤキモキしていたはずだ。
ふいと、旅先から足を延ばしたふりで弟を尋ねる――格好のタイミングだと。
その期待に少々応えてみてやろうという気になっただけだ。
ならばせいぜい、立派な舞台を仕立ててやらねばな――。
どんな役者が顔をそろえるか――きっと、面白い趣向を披露してくれるに違いない」

狼陛下は暗い目をして嗤った。



*

忘却の岸辺(14)

消えた妃を血眼で探す賊らに襲われ、かろうじて逃げ出した夕鈴と克右。
二人は浩大との約束の地をめざし…

【ねつ造】【ジビエ】
※夕鈴と克右が戴いてる食材は、他国ではごく普通の食材ですが現代日本人としては一般的に口にするものではありません。
お気に召さねばスルーでお願い申し上げます。


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(14)
* * * * * * * * *

――浩大と、なんとかして合流を。

約束の地、蓉州(ようしゅう)との州境にほど近い任州(じんしゅう)のある町をめざし、
夕鈴と克右は先を急いでいた。

軍部の克右にとって乗馬は慣れた移動手段であったが
夕鈴にとり馬での旅は思った以上に辛く、体のあちこちが痛い。
疲れがたまると、ついつい滅入って愚痴っぽくなる。

振り切った賊から奪った馬は
脚が速く体力もありよく訓練された良い馬だったし、
装備もしっかり鞍の横に結び付けられていた。

夕鈴と克右を襲ったのは、野党や山賊の類とは違う――と克右は感じていた。

貴族、それも軍部に属す上官クラス以上の…将軍を
顎で動かせるような大貴族。
そんな相手を敵に回している――。

* * * * * * * * *

その日二度目の休憩で馬から降りる。
夕鈴はさすがにホッとした表情でお尻をさすった。

任州は水の都ともいわれ、
大きな河川が州を横切り
豊かな実りを土地にもたらしていた。

克右は自分の馬と、夕鈴の乗っていた馬の手綱を引き、
馬たちを上手に土手から川岸まで誘導して降ろす。
馬はごくごくと水をのみ、その様子を見ていて思わず夕鈴が自分の喉の渇きを思い出した。

緊張に緊張をかさね、お腹がすいたことすら忘れていた。

「火をおこして食事にしましょう」
克右が手慣れた様子で簡単な炉を切り、食事の支度を始めた。

夕鈴は馬の上流で手と顔を洗いうがいをする。
馬は喉の渇きを満たすと、あたりの青々とした土手でのんびりと新鮮な草をはみだした。

「何度か危ない橋は渡ったが、
娘さんも度胸がついたな」

「そ――そうですか?」
夕鈴はあの日以来、克右とさりげなく距離を置くようになった。
克右は苦笑すると、ボコボコ凹んだ鍋を炉の上に乗せ、湯を沸かす。

気さくで優し気な一面のある克右は有能な軍人でもあったので、
心の内面を表に出さず、任務として黙々と働いた。

夕鈴にとって『自分のお守り』が彼の職業上の任務であることが、
少々心の重荷となっていた。

「……危ない橋だから、
浩大に会えて無事が分かったら。
あとは私一人でもいいですよ?」

夕鈴は膝を抱えてつぶやいた。

克右は聞こえなかったフリをして、敢えて返事をしなかった。

ガサリ、と草影で音がする。
(…敵?)
ハッと剣呑な表情で振り返ると、草陰に大きなカエルがいた。

「なんだ…カエルですよ。
克右さん、安心してください」

夕鈴がホッとした声を出すと、克右はすぐさま音を立てずに移動した。

あっという間にそのカエルを捕まえた。

克右は手にした大きなカエルを夕鈴に見せびらかした後
小さなナイフを取り出すと
夕鈴の目の前で器用にツルリと皮をむいた。

「一品おかずが増えましたぜ」

克右が笑うので、夕鈴も思わずつられて笑った。

こんな風に、カエルやらヘビやら虫でも
生きてゆくためには肉を食べなければ体が持たない。

大カエルは御馳走だ。
調味料も油もなく、ただ焼いただけだったけれど
カエルの足は美味しかった。

野山の動物も虫も美味しい食材だと夕鈴は知り
『命をいただいて生き延びさせてもらっている』と感じる。

陛下もこんなふうに、反乱軍と戦っていらしたときは
野山で空腹を満たされていたのだろうかと思いをはせた。

こんなふうに、素朴なものを口にして
兵士たちと舌鼓をうったのだろうか―――。


後宮ではそれはそれは綺麗で美味しい料理ばかり目にした。

夕鈴にとっては目が回るほど豪華な食事で、
下町にいたら一生口にも目にすらすることのない
山海の珍味が食べきれないほど
毎日目の前に山のように盛られていた。

特に宴のときはすごく。
――なのに陛下はそれを前に、ちっとも嬉しそうではなかった。

陛下は時折ごくまれに料理人をねぎらったり
贈られた珍味への礼を口にしたことはあるが
それはあくまで義務として必要のあるときに限られ、
彼の心の底から発せられた言葉ではなかった。

美味しいのか、まずいのか。
――何がお好きで何がお嫌いなのか。
陛下がどう感じていらっしゃるのか――
傍で見ていても、夕鈴にはさっぱり分からなかった。

そのくせ夕鈴の手をとり、口づけをするときは
うっとりとした甘い表情で…
「君がいてくれれば、幸せだ――」と。

まるで極上のお酒に酔っぱらったように
スラスラと極端な美辞麗句が次々と口から出てくるものだから、
夕鈴は赤面するしかなかった。


――『君がいてくれれば』
あの人はそう言ったのに。

夕鈴の脳裏によみがえる、後宮での日々。

あの人が何を好きなのか分かんないから。
陛下のために、必死にお好きなものを探した。

ようやく情報を聞きだして
陛下がお好きだとおっしゃる『甘いもの』『可愛いもの』を一生懸命作った。

李順さんの採点は厳しくて
「あますぎる」だの「形が少し悪い」だの
及第点が出ることはほとんどなかったけれど
へーかはいつだって極上の笑顔でとろけそうに喜んでくださった。

『君の作ってくれたものなら、なんでも美味しい』
――って。

ほんとうに嬉しそうで…あのお顔がみたくって。

そんなにお好きならって
いっぱい作って、陛下を驚かせようって――思っていたのに。

あの日、あの方は
私を抱きしめた。

疲れきった表情のあの人をなんとか元気づけたくて
私は尋ねた。

『お茶をいれましょうか? 陛下。
何か欲しいものはありますか?』

あなたは答えた。

『君がいてくれれば、他に何もいらない』

可愛いお菓子も豪華なお料理も。
何一つも口にしていないくせに
幸せそうに、笑った――。


君がいてくれれば、他には何も…って?
君がいてくれれば…って。
それ。
なんの冗談ですか?

うそつき!!


居ちゃだめだって、決めたのは――あなたでしょ?

「…側にいさせてくれなかったのは……!」

つい不満が口をついて出てしまった。

「――は?」

カエルの後脚の骨の周りをしゃぶり咥えていた克右は、
突然夕鈴が怒りにまかせて叫ぶのを、目を丸くして見つめていた。

しまった!と現実に引き戻った夕鈴は背筋を正した。

「えっと。…側にいたほうが良かったかい、お嬢さん?
そこじゃあ、鍋が遠いか?」

「あ、あのっ。料理じゃなくてっ!!」

夕鈴は顔を真っ赤にしながら憤慨している。
だがその目は克右を通り過ぎて、遠い空に向けらえていた。

「…あの方の、ことですかい?」
――克右はため息をついた。

「…っちっ 違っ!!」
慌てて彼女は打ち消したが、
その憤慨ぶりを見れば見るほど、
克右の言葉は的を射ているとしか思えなかった。

「…違わないですよ
そうでしょ?」

克右は炉に向かい、静かに熾火をつついた。

「ちがわ…ない、です。
そう。
――側に…いさせてくれなかったのは
へーかです」

一瞬表情が掻き曇ると、夕鈴の目には大粒の涙が浮かんだ。

ポタリと涙が落ちた。

「あんなに。
『君がいれば幸せだ』って――
どんな食べ物より
どんなお菓子より
幸せだって。

嬉しそうにしてたくせに。

…忘れちゃったって?」

夕鈴の目からぽろぽろと涙がこぼれ、足元の草地を湿らせた。

「――」

「記憶を消したって。
すべてを失ったって
――ソレ、何ですか?」

あの方を思って泣く彼女をどうにも慰めあぐね、
克右は距離をとったまま遠い眼で音を立てて爆ぜる炉の炎を見つめる。


「……あのお方は
今まで満たされることがなかったんでしょうな。

飢えを満たされ
それを再び奪われるのは――なによりも恐ろしいものだ」

ぽつりと克右は口にした。

二人はシン、と押し黙った。

「――さ!」
克右はおもむろに炉に水をさし、火を消すと立ち上がった。

「ハラが満ちたら、行きましょうや!」

克右はテキパキと片づけを始めた。
跡を付けられないよう痕跡を消す。

「……はい」

夕鈴もノロノロと立ち上がった。

――でも。まだ
わたしは浩大に会って
あの人のことをきちんと聞きたい。

それから――?

自己責任だなんて大ミエ切っておきながら
克右さんと浩大の二人を危険にさらして。
私一人では何一つできずに、守られてばかりで…

だけど。
馬に揺られて、お尻がどれだけ痺れようと
まだ前に行きたい。

この道の先に、何があるのか分からない。
分からなくても――


「どっちにしても。
こんなところで、泣いてるわけにはいかないんだわ!!」

ゴシゴシと涙を袖で吹くと
夕鈴はもう一度顔を洗うために川岸まで走って行った。


*

忘却の岸辺(15)

黎翔と浩大は、李順、補佐官、武官らとともに任州へと足を延ばし、
一方夕鈴と克右は、追っ手から身を隠し、任州をめざす逃避行を続ける――。

【ねつ造】【夕鈴受難※】【渋】
※ちょっと暴力シーンがあって痛いです。ご注意ください。
そして、ちょっと今回は渋い出演者が多いです…。


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(15)
* * * * * * * * *

夕鈴は自分の脆さを、涙を、恥じた。
出立前にこのみじめな顔を、洗い流してしまわなきゃ――

いそいで川岸を目指して駆け寄った。

馬が少し興奮していた

だが、その時の夕鈴は泣き顔を克右に見られた恥ずかしさで
一刻も早く冷えた川の水で涙を洗い流してしまいたいとそればかり考えていて
周囲の変化を気に留める余裕もなかった。

川岸には少々起伏があり、背の高い草が多い茂り足場が悪かった。

カサ、と目の端で生い茂る草が揺れたとき
夕鈴はまた大カエルでもいるのか、とチラと思ったものの
ゆるんだ足元を踏み外さないよう気を使っていて
周囲への注意力が足りなかった。

そのとき、背後で克右が大きな声を上げた。

「――おいっ! …」

声が聞こえた瞬間、
背後から大きな手がニュっと伸びてきて、腰から乱暴に網をかけられ、腕ごと体の自由を奪われた。
夕鈴はつんのめり「きゃあっ!?」と声を出す間もなく、頭から荒い麻袋をかぶせられた。

夕鈴は目の前が暗くなり、麻布の粗い隙間からかろうじて光のある方向が分かるだけだった。
叫ぼうとしたが、袋の上から首元に太い縄を巻き付けられ、ぎりぎりと締め上げられ声もでない。
恐怖と息のつまる恐ろしさに血が逆流した。

「叫べば、くびり殺すぞ!」
おぞましい脅しの声が聞こえた。

両側から荒々しく体を抱え上げられ
ひょいと体が傾き宙に浮いた。

「――やぁ や、やめて――!」
必死に声を絞り出し、ばたばたと足を激しく動かす。

体を網でぐるぐる巻かれ体の自由を奪われた夕鈴が、見えない相手に抵抗する術はたいして残っていなかった。
頑丈な相手は夕鈴が少々暴れようとビクともしなかった。

首を絞められた夕鈴は、刻一刻と血が溜まる。
パンパンに鼓膜が膨らみ今にも爆ぜそうなほどで、あまりの苦痛に夕鈴は慄いた。
腫れた血管で締め上げられ、耳の中で拍動の音がドンドンと鈍く響く。
まるで水の中で聞く音のように、どこかから克右の怒鳴り声が聞こえた気がした。

克右さん!?
――遠くて きこ、えな。――い

「や、やめ――」

苦しくてもがく。
だが、自由にならない。

今にも窒息した脳は破裂しそう。
夕鈴は新しい息を求めパクパクとあがくが
新鮮な空気は少しも体に入ってこなかった。

少し離れたところから、別の男の声がした。

「馬鹿野郎、締め上げすぎたら商品価値がなくなるぞ?
あの方は、無傷で連れて来いとおっしゃったんだっ!
殺しちまったら金にならんどころか――オレたちが殺される!
キサマ、その女の首に縄の痕なんかつけやがったら……」

「おっと、そりゃ、申し訳ない!」

ゴリゴリと耳元で音がしたら、急に体をひっくり返され、
驚いた夕鈴はかろうじて自由な足をしっちゃかめっちゃかに動かした。

「あばれるんじゃねえ!
ほどけねえじゃないか!」

無理やり首に巻き付けられた縄を引っ張られ、夕鈴は首が抜けるかと思った。

荒々しく体を扱われるのは我慢がならないが、それで窒息する苦しさから解放されるのなら――と夕鈴も必死で耐えた。

すると、首に巻き付けられていた縄が緩んだ。

今度は一気に解放され、狭い血管を我先にと血が下る――

一気に圧力が下がり、意識が薄らぐ。
必死にあえぎ新鮮な空気を求めるが、麻布が口に吸いついてうまく息がすえない。

もみくちゃにされて、ガクガクと世界が回る。
相手は自分をかかえて走ってるのか
それとも、馬――?

視界を奪われたまま眩暈と苦痛で頭が朦朧とし、
恐怖の嵐の中で夕鈴は気を失った――。


* * * * * * * * *

「陛下。いかがいたしましょう――?」
氾大臣がやわらかいほほえみを、部屋の最奥の座に座る主へ向けた。

「ご会談の日時は―――これにてよろしいでしょうな?
明日早朝、蓉州の使者がまいりますれば、
王弟君の処遇について、正式なお返事を――」

「柳大臣。そのように急かずとも。
まずは王弟陛下の人となりを知り、
話し合うことが重要でございましょう。
何事も急激な変化は避けるべき。
次の段階に至るかどうかは、まずはそれから考えることであり
一つ一つ手順を踏む必要が我々にはあるのでは?」

慇懃な会話が、珀黎翔の眼前で続けられていた。

「手順を一つ一つどころか…。
お前たちとここで合流するとは思ってもいなかったがな」

珀黎翔が、任州(じんしゅう)を訪れることはもともと旅程には組まれてはいなかった。
それにも拘わらず、なぜこの男たちはこの任州の州都閑積(かんせき)からさらに奥まった辺鄙なこの場所にいるのか――。

蓉州は大河で隔てられており、その川の岸辺に大きな町があった。

浩大が克右と落ち合う約束をしている蓉州行きの船着き場の町を目指した黎翔一向は、その少し上流の町に滞在していた。

というのも、国の重鎮たる大臣がそろってこの町に居る、という情報が途中でもたらされたからである。

浩大が『落ち合えなければ先に行け』と克右に指示した合流の日を明日に控え、
氾大臣、柳大臣と相対するとは思ってもいなかった。

約束の地に向かう途中、ということもあり、黎翔として内々の用事に足止めを食う形になっても両大臣とあいまみえるは致し方なかった。

今回の予定外の遠征は、非公式とはいえ側近の李順の他に選び抜かれた近衛の小隊、柳方淵ら補佐官ら公人を同行させている。
普段忍びで身軽な移動を好む黎翔がわざわざ大仰に振る舞った理由というのが、ほかならぬ密会談のセッティングの演出そのものであったから。

国王の視察の予定に入っていない『突然の予定変更』を、みな腹積もりしていたことだろうと黎翔はカマをかけ、その通り王宮のメンツは動き、黎翔の読み通り、いやそれ以上の大役者を舞台の上に引っ張り出した――。

黎翔はシナリオ通り舞台の幕が上がったことを知り、
二人の役者を昏い瞳で見つめ返す。

薄い唇を引き上げ、冷たい声で問いかける。

「お前たちがそろってこのような辺鄙な場所に?」

「それは、会談にもっとも都合の良い場所だからでございます――」
柳義広が答える。

「ほう、会談?」
黎翔はまるで初めて耳にしたかのように表情を変えずに両大臣を冷静に見つめていた。

「王弟殿下のご処遇をお話しあいになる、この国にとってたいそう重要な、話し合いにございます」
氾史晴が付け加えた。

「国の大事なれば、我々王の臣下としてはせ参じた次第」
柳大臣は本日三度目となる同じ文言を慇懃に述べた。

「私が視察先から、気まぐれに足を延ばすなど――誰が想像できるものだろうか?」

黎翔の冷たい口調を、涼やかな目元でいなす氾史晴。
「それはご聡明な陛下であれば。現状王宮を悩ませる問題に、誰よりも早く取り掛かられることとお察し申しあげ。
さすれば我々陛下の臣としてできうる限りの準備をさまざまに巡らせていただいておりました次第」

それに対し、柳義広はいつも通り苦虫をかみつぶしたような鉄面皮を張りつけたまま奏上する。

「蓉州の使者と会うには、任州のこの川のほとりの町がまさにうってつけ。
話がまとまり次第、直ちに王弟陛下と蘭瑶さまもお呼びいただけるよう、雨宣(うせん)にご両名にご待機願うべきかと」

柳の言葉に、氾は異を唱える。
「それは時期尚早――!
それではまるで、すでに王弟殿下を王宮へお迎えすると
決まったかのような口ぶりではありませんか!」

「実際、そうではありませんか。
後宮の花は枯れ果て、若き国王にはいまだ跡継ぎとなる御子もなし。
正当な王家の御血筋をお引きあそばした王弟殿下をお迎えする以外、
他に何か良い打開策でも――?」

柳大臣はつまらなそうに氾大臣を見遣った。

「ご正妃をお迎えになれば済むこと――いやむしろ。そちらが先の話では?」
氾はなにをいまさら、と面白がっているようだ。
その微笑をたたえた口元はあくまで柔らかいが、後に引く様子も一切なかった。

「先のばしにした結果が今ではないのか?
王弟殿下をお迎えし、その後ご正妃から嫡子が生まれれば
その方をお世継ぎとしてご指名なさるにそれに越したことはなく。
現状王弟殿下を王宮に呼び戻するは、いうなれば保険。
王弟殿下にも王都暮らしに慣れていただき、王のお力になるべくご勉学をしていただくことと、ご正妃の問題とは
何ら競合することではござらん」

「正妃問題と、王弟を王宮に呼び戻すは別の問題――とおっしゃるのか?
しかし王宮の日の当たる場所に王弟殿下を引き出せば、持つ力なき王弟を懐柔し己の権力の足掛かりにと目論む、良からぬ考えを持つ者も出てまいりましょうなぁ」
氾大臣は柔らかく笑った。

「なに、王弟を担ぐというのであれば、担いでみれば宜しかろう。
さすればいかなる思惑を誰が持っているのか、我々に各々の腹の内を見せてくれる良い機会となりましょうぞ」

珀黎翔はチロリと狸に視線を走らせた。

「…とは、この際、私に踊れ、と――?」

「王弟殿下の人となりを見定めるは、我らにとっては大切なこと――ただし。
その存在をどう利用しようとしている輩がいるか、知ることも
陛下にとってはまたとない益となりましょう?」

鉄面皮の柳義広は、いつものように、つまらなさそうに言ってのけた。

「お前たち、柳家と氾家は古くより根深い確執があると聞いていたが。
お前たちが反目するふりをしながら、
私まで躍らせようというのは
どういう風の吹き回しだ?」

ムスリとした柳義広を横目に、氾史晴はまるで冗談でも話しているようにハハハと軽い笑い声をたてた。


*

忘却の岸辺(16)

ご無沙汰いたしました
今日のお仕事終わりました~

ちまちま打ってたんですけど
なかなかアップするところまで…で(汗;


【ねつ造】【ネタバレ】【ブラック無糖】

重苦しくって昏い黎翔さまのターン。
すみません――。
コクを濃縮。

ああ、糖分が欲しくなってまいりました――


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(16)
* * * * * * * * *

任州と蓉州の国境を隔てる大河の上流の
荒々しい急流の渓谷に、この町はあった。

失った記憶の鍵をにぎる克右と合流の約束をしていた浩大の情報をもとに
国王、珀黎翔は視察先から任州へと足を延ばした。

折しも王弟を王都に呼び戻すかどうかで王宮は二派に分かれ争いがおきていた。

賛成している最大勢力の柳大臣、そして反対している氾大臣は
王が視察地から予定外の行動にでることを
――つまり、問題の核心である王弟問題と直接向き合うこと――を想定し、
先回りをして蓉州との州境のこの地を会談の場所として選んでいた。

またもし万が一国王が動かなければ、自分たちの行動によって水を向ける腹積もりであったに違いない。

なにしろ、会談のセッティングは隙なく整っていたのだから。

一方、国王の黎翔は、王弟の扱いをめぐる王宮の諍いを諫めるでも結論を出すそぶりも見せるでもなく静観していた。

なにがうごめき出すのか――

王宮の闇で
誰が、どのような謀略を張り巡らしているのか。

誰とだれが裏で繋がり、
浅はかな貴族にどのような口当たりの好い餌をバラ撒き煽動するのか。

それら、ありとあらゆる薄汚い技ーー

が、どのように暴露されるのやら…と
黎翔はむしろ楽しみにしていた。

それよりも今、
彼の心を占めているのは

この現状を憂いて自分が事前にとった『手段』のことについて。

こうなることを予測し、自分はなにか大切なものを手放した――。

そこがどうにも腑に落ちない。

黎翔は、自分を割り切った男だと思っていた。

物でも人でも、
何一つ自分は縛られるつもりはないし、
まして執着するなど。

いざというときには割りきれる
自信も覚悟もあるつもりだった。

自分が背負ってきたもの。

王の子、として
物心ついたときから
生まれついた場所を受け入れなければ始まらなかった。

正直なところ、
自分の身にも、生きることにも
執着はない。

そう
いつ死んでもよいとすら
黎翔は思っている。

しかしただ死ぬだけも間抜けすぎる。

生まれてきたからには、何か甲斐が欲しかった。

「楽しませてくれ」
投げやりなようだがそれを願った。

まだ子供で、無力であったころから、
黎翔はありとあらゆる敵の罠に囲まれていた。

――それがたとえ近しいものであっても。
相手が誰であっても、
どんなときでも。
『気を許す』ことは危険だった。

優しい笑顔と甘い言葉で自分に取り入り、
居心地よく懐まで忍び込む。
永遠に続くかのような安らぎの日常は、
ある日一気に瓦解するのだ。

実際、彼に取り入るものは
皆、例外なく敵だった。

力なき王の庶子に
下心なく近付く者は皆無だった。

騙されるのは、愚かだと…。

笑いながら毒を入れる者ばかりに囲まれていれば
『無条件に自分以外のものと心を通わす』など
この世にはあり得ないことだと、
幼い黎翔は諦め確信していた。

信頼は、唯一、契約によって生じる。

互いの命をささげ、
逃げ隠れもできないほど深いところで交わす約束だけが、相手と自分をこの世に縛る――。

身も心も命まるごとを預けられた以上、その見返りとして結果を残し、彼らを満たし応える責務を全うせねばならなかった。

有能な家臣の助力を得るために交わした契約によって、がんじがらめにこの世に縫い止められた今の自分の体は維持しなければならない。

王の子に生まれついた立場。
いつのまにか、自分の体は己だけのものではなくなっていた。
第一条件として、まずこの身を保たねば…生きていなければ話にならない。

――だからそのための鍛錬は欠かさず、抜け目なく生きる術は人並み以上に身に着けてきたと思う。


荒れた国を掃除する。
それは楽しかった。

権力を欲したことはないが
醜い争いに巻き込まれながらも、戦うことで自分がいる証を立てた喜びは小さくはなかった。

生き残ったその事実が、強く賢い者の証で
その力が彼を国の統治者に押し上げた。

強く武力に秀で、誰からも恐れられる王。

だが、黎翔個人としては
その脳力を自分以外の何かとの結び付きのために
発揮するつもりはさらさらなかった。

何かと深く情を結び、気を取られるつもりはない。

それは何度繰り返しても裏切られ続けたことで――正直、無駄なことだと黎翔は知っていた。

無駄な情は、判断を誤らせる。

彼を取り巻くすべて…血縁であろうと、命を狙う者ばかり――。

そんな中で生き抜いてきた、力なき子供が
やがて冷酷非情の狼陛下と呼ばれるに至った背景は、
情を切り捨てていたからこそ。

情に溺れなかった酷薄さに助けられ
今まで生き抜いてこられたにすぎない。

『楽しませてくれ――そうでなければ、切り捨てるまで』

黎翔は飢えていた。
生きる喜びの糧に…。


今も昔も、そんな自分は、変わらない。

だから
自分の心の領域に
誰かを許し
必要以上に情けに流された自分という存在があったという事実が
黎翔には信じられないことであった。

『そこまで私を変えたものは何なのだ――?』

必死の思いで捨て去ったものを
切望するなど、皮肉だ――。

浩大から話を聞いて以来、
以前の自分が禁忌を冒してまでも忘れ去ろうとした何かについて黎翔は考えていた。

忘れなければ生きてゆけないと自ら思いつめ
絶対に選ぶはずがないと思っていた手段
――亡き母が選択し、憎んでも憎み切れないほどの嫌悪を持っていたという
掟に背く方法――
に自分が踏み切った、というそのことが。

そこまでして忘れることを選んだ自分がいた、という事実。

今度は、それが何だったのか分からないことでイライラとしている。

その大切なものにまつわるすべて…。
見えない、聞こえない。

そんな不思議な現象が起きていることすら、自分は分からない。

真っ白に何もかも失った。
それこそが、記憶を失う前の自分が欲した『何か』であったはず。

いま、自分が仮にも王として、責務を全うするに遺憾ない状態でありながら。

――知りたい。
私は、何を失ったのだ?

自分が壊れ、死と渡りあう危険を冒しても、忘れたかったこととは、――何なのか。

* * * * * * * * *


「ああ、陛下。このようなところに――」
黎翔がめずらしく窓の外をボンヤリと見ている姿に気が付き、李順は声をかけた。

「さ、そろそろお支度を。今日は頭の痛い一日になりそうですよ」
李順はぼやいた。

「浩大は?」

「克右と落ち合う場所へと向かいました」

「…私は置いてきぼりか」

「この状況では仕方がないでしょう。…浩大には克右らをここに連れてくるよう伝えてありますから。どちらにせよあなたがお望みの通りとなりましょう」

「望み?」

「あなたは会いたいのでしょう?」

「会いたい…?」

「あなたが手放した……」

「いあ、李順。
――正確には、少し、違うな」

「違うのですか?」

「すまん。分からんのだ、私にも。
何を失ったのかすら、
いまだに何も分からない」

「…そうですか」

「だが、
知りたくてたまらんのだ。
以前の私が、そこまでした、という“もの”が――」

「…知ったところで、どうなるものでもないと。
そうはお思いになりませんか?
あなた自身が切り捨てた過去を
――今更、とは?」

「今の私には見えず、聞こえず。
…そんなものを、どうしろと?
一旦自ら手放し、捨てたものに追いすがるとは、まるで愚かの極みだな」

「…さあ。
聡明な陛下がお分かりにならないことでは――。
わたくしにもそれは分かりかねます」

「そうだな。以前の私なら、切り捨ててきた。
だが――割り切れないことにこれほど引かれるからこそ、今はただ。
素直に知りたい、と思うのだ」

「特殊な…秘薬の作用にございますから。
老子にも調べさせましたが、もとより博打のような…。
例の秘薬の効果は不確かすぎるうえ
幸運にも一度失った記憶を再び取り戻した例は過去にない、と――」

「承知している」

「見えなくなったものが、見えるようになったことも――
聞こえなくなったものが、聞こえるようになったという例も、
一つも、見つけることはできませんでした」

「そうか」

「あなたは、もうお忘れになったのです。
姿も、形も、言葉も」

「…そうらしい」

「あの日。
あなたはお見えにならなかった。
傍にあっても、分からなかった…」

李順は肩を震わせた。

――ああ、陛下。
あなたの判断は正しかったはずなのだ。

妃としての資質も条件も
何一つ持たぬ彼女を
見逃した。

これ以上の最善の策はないーー

なのに。

あなたは最も大切で
この世でたった一つのものを。

あなたへの天から与えられた恩恵
――幸せ、を。

手放しておしまいになったのでしょう…

おそらくは。


永遠に。







*

忘却の岸辺(17)

【ねつ造】【ネタバレ】【狸合戦】
柳氾豪華キャストによる夢の競演(?)
…陛下、ちっとも愉しそうじゃありませんが。
楽しんでおいでならば幸いです…

そして…
ついに黒幕が――!?


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(17)
* * * * * * * * *

晏流公側の使者を迎えた会談は任州と蓉州の国境を隔てる大河の上流の荒々しい急流の渓谷の町のさる場所で行われた。

内々のこととはいえ、国王珀黎翔とその側近以下、王宮側のそうそうたる面子が朝早くから顔を揃え、使者を迎えた。

王弟を王宮に呼び戻すことに賛成である柳義広大臣ら、反対を唱える氾史晴大臣ら、どちらにも組みせぬ中庸派など八名の大臣と議事を正確に記す二名の書記官が列席した。

李順は王の傍に付き従い、静かに見守っていた。

政務官、そして補佐官の氾水月柳方淵ら数名は別室で待機させられていた。

使者が恭しく礼をするや、大臣らは使者に次々と質問を投げかける。

晏流公の人柄や個性、知、体、技、立場、将来…。

自分たちにとって利益不利益を擦り合わせるために、晏流公たる人物の詳細なる情報を洗いざらい引き出さねばならない。

国王は言葉少なく聴くに徹し、主に両大臣と使者との間での会話が延々と続いた。
そんなふうに十二歳そこそこの晏流公という子供をめぐり、国の重鎮が互いの懐を探り合い、いつの間にか数刻が流れ去った。

休息をはさむため一旦使者を別室に遇し、王宮側のみでの話し合いに入る。


「――晏流公は年若くともたいそう勉強熱心で、学問の才あるお方のようではござらぬか。そのようなお方を田舎の片隅に押し込めておいては、勿体ない。早くより王都にお迎えし最高の学習環境を備えて差し上げ、国王をお支えし盛り立てられる人物にお育ちいただくことこそ、大切なのでは」

「いやたいそうお体が弱く、剣ひとつ振るえぬと聞く。
そのようなお方が陛下をお支えし、お守りできるとは到底思えませんな。
逆に足手まといになるだけでは」

「否。陛下をお支えするのは、武のみにあらず!」

「そうだ!
脈々と続く王家の血筋を絶やさず、継承することほど大切なこともあるまい。陛下にお子なき今、晏流公という存在がその点一番の安心材料であることに変わりはあるまい」

晏流公側の使者がいなくなれば更に舌戦は加速し、大臣らの話し合いは激烈を極めた。

晏流公を迎えることに賛成の意見がやや反対派を上回り、氾大臣らは苦戦を強いている。

「安心材料、とおっしゃるが。
それはなた方が陛下に万が一のことあらば、とお考えになっておられるからか――?
だとすればそれは大変に剣呑なお話でございますねえ。
…私が考えるに、今王弟殿下を王都にお迎えするのは、何分にも時期が悪い。
いずれ王が妃をお迎えになり正当なる後継者がお生まれあそばした後ならばまだしも。
現在ですらこのような言い争いの種になるのだから、後継者問題ともなれば尚更に。家臣らは派閥に分裂し、いさかい、国政を混乱に陥れる火種となりましょうな」

氾史晴は柔らかい口調とは裏腹に、刺すような目つきで賛成派大臣らを一瞥した。

賛成派の大臣の一人が興奮して口を開く。

「しかし!
晏流公は亡き先々代、現王の父の血を受け継ぐ直系。
――しかも御母上、蘭瑶様は大貴族出身の氏素性正しきご家系にて。
高貴なるお血筋においては誰よりも後継者として相応しき御方と――」

黎翔が身分の低い母を持つことを暗にほのめかし、晏流公を持ち上げる言葉が出るにおよび、当の国王は顔色ひとつかえずそ知らぬふりで聞き流していた。

氾史晴はニコリと冷たい微笑みを浮かべ、男に返した。

「なるほど。ここにおいでの陛下の御前にてその様なことをおっしゃるからには、
貴方がたは、陛下のお血筋に関し何かご不満がある…とでも…?」

国王へ対する暴言ともとられかねない言葉をうっかり口にしてしまったその大臣は、思わずカっとなって立ち上がった。

「戯言をっ! 人の言葉尻を捉え、ありもせぬことをもっともらしく…
陥れ墨を付けるとは許しがたい!」

後方で速記を取っていた書記官の硯を持ち上げ、氾史晴に投げつけた。

「何をなさるのですかっ!」
李順が慌てて二人の間に割って入ろうと駆け寄る。

周囲の大臣は激昂する大臣の暴挙に驚き慌てふためく。
氾史晴の両脇にいた大臣は黒い飛沫を避けるように顔を袖で覆い怯えた。

「…」

氾史晴の官服にはべっとりと真っ黒な墨の染みが広がった。
李順はすぐさま氾大臣に懐紙を差し出しながら、奥向けに声をかけた。

史晴は薄笑いを張り付けたまま、瞬きもせず硯を投げつけた大臣を見返している。

「なるほど。あなた方のおっしゃるところの『下賤の舞姫を母に持ち、北の辺境で育った、後継者を持たぬ狼王』は、この国に墨を塗り、汚点を残す…とでも?」

自分たちが陰で言っていたその言葉を、この男はいったいいつ聞いたのだろう――。
(王の前で何もそのような…。
いや、誰もが言っていることだ。自分の発言とは思われまい…。)
暴挙をなした大臣にの背中に、ブルリと震えが走った。
だが表面上、怖気づくわけにはいかない。

「…汚点などと。
仰っているのはあなたではないか! 

陛下に万が一のことだなど、我ら家臣、口が裂けても言わぬことを
平気で口にするは、貴方ではないか! 

そもそも最も正妃に近いと謂われる娘を持つ父なれば、
そのようにもっともらしく言い掛かりをつけているにすぎん。

我々こそ、真剣にこの国の行く先を憂いる忠臣ぞ――!」

「みなさま、――少し、落ち着かれては…!」
李順は荒れる大臣らの中で、両手でさえぎり袖を振り上げ激昂する大臣らを妨げた。


その時、カタン…と国王が席を立った。

「――みな、大義。
しばし休憩を」

李順がハッとして向かいなおると、事務的に述べた。

「…では、昼餉の後、再度ご使者との話し合いを進める予定です。
皆様も一旦ご休憩を」




黎翔は真っ直ぐ扉に向かう。

後ろから続く李順はその時、自分の袖の中でカサリと音がすることに気が付いた。
手探りで手を入れると、袖の中に小さな投げ文が入っている。
(いったいだれが…?)
李順はメガネの奥でいつその文が入れられたかを考えていた。

その間にも黎翔は部屋を出ようとしていた。
一瞥もくれず入口の前に立つと、両側から重い扉が開けられる。
続く控えの間側に居た政務官、補佐官が恭しく跪拝をとり迎えた。

黎翔が部屋から足を踏み出そうとした途端、
後ろから先ほど氾史晴に硯墨を投げかけるという無礼を働いた大臣から大きな声がかかった。

「陛下!
晏流公ご本人と、蘭瑶様にお会いにはなられませんのかっ?!」

「…それには及ばん」

黎翔は即座に背を向けたまま答えた。

「しかし!
このまま本人抜きにあれこれ話し合っても平行線をたどるだけ。
いっそ、ご本人に会うが一番のご理解につながるのでは――?」

黎翔は一息間をあけると、
くっきりと前を向いたまま答えた。

「直接見聞きしたものだけが真実とは限らぬ。

時に、虚が姿をなし
時に、実は目に見えぬ。

――そうであれば、会うことがそれほどに大切とは思えぬ。

…それより、先方が会うことで既成となすつもりであれば
選択の余地を狭め、分を悪くするはこちら側だ」

「しかし、会ってみなければ分からぬ!
晏流公様と蘭瑶様を、ぜひここへお呼び寄せくださいっ…!」

「いや、陛下のおっしゃる通りだ。…会う必要などない!」

大臣たちは賛成派と反対派に分かれ、轟轟と互いに非難を始め、意見を述べ始めた。

「そもそも墨を投げるなど卑怯な。
使者の前で、我ら反対派に恥をかかせるが目的か?
本音を指摘されカッと暴挙に及ぶだの、大臣の器としていかがなものか」

「何をいうか! 
そちらこそ都合の良い方へと理を曲げ、主張されるは恥ずかしきことぞ」

「賛成派の方々こそ、墨で塗りつぶしてでも白を黒と成したいのでは――?」


黎翔は、ドン、と足を一歩大きく踏み鳴らすと、辺りはシンと静まり返った。


「――みな、頭を冷やせ」

黎翔はそのまま歩きだし、後ろを李順が続いた。

「氾大臣殿のお着替えに、お連れしなさい」
政務官に部屋の始末を頼むと、李順は目立たぬよう黎翔の耳にヒソと耳打ちをした。

混乱に乗じ、李順の袖の中に投げ込まれた文について報告をうけた黎翔は小さくうなずいた。
「分かった」

李順はそのあと、部屋の中に残る補佐官らに視野ぐるり巡らし、
水月と方淵の二人を指差し、呼ぶ。

「…氾水月、柳方淵。こちらへ――」

黎翔はどんどんと歩き去る。
振り返り手招きする李順に足早に二人は付いて行った。

「何でございましょう?」
方淵が眉間にしわを寄せ、小さな声で問う。

李順は周りの補佐官に聞こえるよう、丁寧に説明を加えた。

「少々、トラブルがありましてね。
この後どう揉めるかわかりませんが…
墨をかけられた氾大臣と、墨をかけた賛成派との間に立つ柳大臣にとり、
今あなた方が並び立って居る様子は少々居心地が悪いことでしょう…。
このまま私たちと一緒に付いていらっしゃい」

「どちらへ?」

「とにかく、付いていらっしゃい」

しばらく歩き、あたりに人の気配がなくなると、
李順は二人にも聞こえるくらいの小さな声で囁いた。

「何やら少々気になる投げ文が
いつの間にやら私の袖にはいっておりましてね。
―――陛下への呼び出し状…のようです―――
あなたたち、よろしいですね?」

李順の背中をジッと見つめた方淵と水月は、小さくうなづいた。


* * * * * * * * *

黎翔と李順の後ろを少し距離を置き、
あくまで傍付きとして不自然でないように気を付けながら
方淵と水月の二人は付いて行った。

黎翔は建物の外に出ると
木漏れ日の庭を抜け、館の裏にある裏木戸の方へと歩いて行った。

この館は川縁の切り立った崖の高台に建てられており、
涼しげな風が通り抜ける保養地の中でも最高級の場所であった。

裏木戸の外から、川辺に面した小道を見通す。
少し先に古びたつり橋がかかっていた。

李順を従えた黎翔は暫く立ちつくしていた。


「こんなところに、陛下を呼び立てるなど、許しがたい――!!
なんたる無礼者だっ!」

少し離れた場所で控えている二人だったが、じっと国王が待つ姿を見守っている方淵は水月にだけ聞こえるよう口にした。

「それにしても、陛下を御待たせするとは、大した呼び出し主だね。
というか、普段ならこんな呼び出し無視するだろうに…陛下はどうされたのだろう?
何か特別な…」

「そんなことが、我々ごときに分かるものかっ!」
吐き捨てるような方淵の口調に、水月は相変わらずだね、君は、という表情を浮かべた。

とにかく待つしかなかった。
水月と方淵の二人はすることもなく、ただじっと恭しい姿勢を崩さずにあたりの気配を伺っていた。

方淵はムスリとした表情で、答える様子がない。
水月は少し退屈したのか、またつぶやいた。

「呼び出し状とは…なんだろう。
見届けよ、という人選なんだろうけど――。
万が一、荒事だったら
非力な私には勤まらないよ…?」

「それだから貴様は軟弱だというのだ!
李順殿が兵を呼ばず、我らに見届けよというのであれば
何か事を荒立てたくない理由がおありになるに違いない」

「…ふうん」
水月はそんなものかな、と、ぼんやりと笑った。

「貴様、気を抜きすぎるな。ちゃんと礼を保て!」

「…はいはい」

水月も方淵に倣い、表面上は真面目に顔を伏せていた。

川せせらぎ、緑のこずえを風がわたり、二人はしばらくそのままじっと黙っていた。

その時、袖を合わ、顔を伏せていた柳方淵が小さな声で呟いた。

「…見えぬ、実(じつ)――」

「え? なんだい?」
氾水月が聞きとがめた。

「陛下は、
『時に、虚が姿をなし 時に、実は目に見えぬ』
とおっしゃった」

柳方淵が顔をあげた。
あいかわらず気難しげに眉根に皺を寄せている。

「…ああ、そうだね」
小さなため息とともに、水月はつぶやいた。

「考えても、何のことか
オレには分からん」

「そうだね
君には分からないだろうね」

水月はニコリと柳方淵のほうに顔を向けた。

「…何っ?
では、貴様は分かるとでも――?」

「…だって君。
君は。
私の耳に聴こえるものを聞かないだろ?

楽の音の機微も、この空気に溶ける美しい気配も。
私の眼には見えているものであっても
何一つ
君は見えたためしはないじゃないか」

「…貴様、馬鹿なことを言って茶化すな!」

「茶化してなんかいないよ?
だって、ほら――」

水月は、木陰を抜けて、花々の周りをせわしく飛び回っていたミツバチを指さした。

「――虫も、鳥も、動物も。
人とは異なる目を持って
ヒトの見ないものを見て、感じているよね」

「虫や鳥がどうした!?
そもそもそのように下等なものと、人とを
比べることが間違いだろう!」

「…ううん。
世界はね――
私たちに見えることだけが全てじゃ、ないんだよ」

「全て?」

「眼を通して取り込んだ感覚を、頭の中で作り直したものを
私たちは『現実』と思っているだけさ。
まだ見えないものが世の中には一杯あると、君は思わない?
そもそも、見えないから無いと決めつけること自体、おかしいと思わない?

『眼で見えなくても、在る』からこそ
…希望とか、未来とか
私たち人は信じることができるのさ。
希望が『ある』から、
人はそれに向かって生きていけるんじゃない?」

「――相変わらず、お前は
お目出度い奴だな…」

方淵は水月の飛躍した理論にも、もしかしたら一理あるのかもしれない…と考えた。

「見えずとも、そこに在る。
それを、人は信じられるものか?」

「――さあ?
超現実派の君の言葉とも思えない質問だね」

水月は笑った。




その時、風が変わった。

ギイイ…ときしむ音がして、つり橋の向こうから誰かがやってくるのが見えた。

渓谷の一番狭いところをつなぐその橋は古びて、川面を吹き抜ける風でゆらゆらと揺れている。

「あれが、お客様ですかね」
李順がメガネの弦を押し上げ、目を細めてその姿を凝視している。

「そのようだな」
黎翔はゆったりとした足取りで、橋のたもとに近づいた。

李順が方淵と水月の方に目配せをした。

水月はいつになく真剣な瞳で、その意をくんだ。
「もう少し近く。控えよ、と」

「おいでなすったか。
散々陛下を御待たせして勿体ぶったことだ」

方淵は吐き捨てるように小さな声で愚痴、間合いをはかり橋の周辺が見通せ、いつでも動ける場所で二人は位置を取った。

「…あれ、は?」
水月は髪をなびかせ、その先を遠い目で見つめた。


李順は目をこすった。
もう一度メガネをはずし、手布で素早く磨き、かけなおす。
何度確認しても、―――それは。

橋を渡ってきたのは若い男で
その男は一人の女を連れていた…。

男はつばの広い帽子の前に垂れ布をかけ、顔は今一つはっきりしない。
襟合わせも若々しく高貴な色合いの衣装を身にまとっている。
男の雅な身ごなしとすっきりした顎のラインに李順は、ピンとくるものがあった。

男が連れている女は、小柄な体には質素な衣服を身に着けている。
膨らんだズボンにブーツをはいた様子はおそらく旅装そのままで、
泥と埃に汚れていてお世辞にもきれいとは言えなかった。
明るい茶色の長い髪は小さな丸い髷を二つ頭のてっぺんに結い上げているだけで、飾りっ気はなにもない。
後ろ手にきつく縛られた女は猿轡で口を封じられ、うめきながら、風で煽られるたびに右に左にぐらつく吊り橋の上で背中を押され、危なっかしげに渡る。


「お――お妃っ!?」

方淵の黒い瞳の瞳孔がことさら大きく見開かれた。

着飾った姿しか見覚えはないが…あの顔、あの姿…まさしくあれは

「たしかに…、お妃さまだ…!?」

水月も、驚いたようにその姿をとらえていた。


*


忘却の岸辺(18)

ようやく書けました。御待たせしました。

ネタバレ+妄想創作で、かなりのねつ造設定、お許しください。

【ねつ造】【ネタバレ】【シリアス】
黒幕がそのヴェールを脱ぐ――。
李順、方淵、水月の見守る中、ついに夕鈴と、黎翔の再開…!?


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(18)
* * * * * * * * *

蓉州より迎えた使者を別室に下がらせた後、王弟の扱いをめぐり白陽国の重鎮たる大臣らが喧々諤々と揉めていたその最中に、李順の袖のなかに投げ込まれた文。

李順は素早く目を通してみれば

「花落知多少
館の裏の橋まで」

と意味深な文面。

「花落つること知んぬ多少(いくばく) ぞ、とは有名な漢詩の一説…。
どれだけの花が散ったのかわからない、とは
脅しでしょうかね…?
それにしても、いつの間に。誰が…」李順は眉を顰めた。

王弟を王都へという一派の大臣が、激昂したあげく反対派の氾史晴大臣に硯ごと墨を投げかけた。頭に血が上り騒然とする大臣らの間に割って入った李順の袖に、冷静に文を投げ込むとは…あまりに意地が悪い。

嫌な予感がした。

黎翔に伝えるべきかどうか一瞬迷ったものの李順はすぐさま伝えた。

ただの脅しであればよいが、
この文に暗示された「花」が、万が一にも黎翔が手放した花であったら?


王は花を隠した。

王宮の悪い夢から隔離し、誰の手にも触れさせぬため。


――黎翔は、自らの記憶すら手放したのだ。
それほどまでに、大切にいつくしんだ唯一の花。
万が一にも、王宮の誰かが彼女を見つけ出すなど――あってはならないことだった。

ただの町娘の彼女を大切に思うがあまり
胸の痛みから逃げ
代えの利かぬ王の命を天秤に懸けた。

喪失感すらまるごと失ったはずなのにもかかわらず

あの方自身にとっても、
今まさに『知りたくてたまらない、何か』である
失った核心。

文のことを言えば、あの方のこと。
必ずご自身で確かめようとなされるだろう。

だから李順は保険をかけるために、方淵と水月の二人を伴った。

そして文にサラリと目を通した黎翔は、李順が予想した通り、無言でここに来た。

蓉州と任州を隔てる川。

その切り立った縦谷に掛けられている吊り橋の向こう側から
渡ってくる人がいる。


「陛下」

「男が――来るな。
奴か? 手紙の差出人は」

「おそらくは」

「…李順? どうした」

「…いえ」

男は、もう一人を伴っており
それが黎翔に知覚できないというのなら
おそらく、やはりそうなのだろう。


* * * * * * * *

つり橋を半ば過ぎまで
ゆっくりと渡ってきたその雅な男。
連れの女が一人。

旅姿の娘。
小さな二つの髷を頭上に簡素に結い上げた明るい茶色の髪は、背に流れて揺れる。
茶色い瞳は瞬きもせず、こちらを見つめていた。

囚われ、腕を縛られ。
ずっと被せられていた布を取り外されたとたん、
女の瞳に映った景色は眩しすぎた。

橋の向こうに見える景色。

女は思わず自分はもう死んでしまったのか、
あるいは夢の続きを観ているのに違いない、と思った。

「…陛下?」

遠く離れていても、見間違えない。

だって、私はずっとあの方をおそばで見ていた。
足音がすれば、あなたではと、毎日、毎日。
ひと時たりとも忘れることなく
あなたのために、私は居た。

だから、見間違えるはずは、ない――。

(陛下、あなた、ですね?)

あれほど会いたいと願ったあの人がいるとは思いもよらず
夕鈴は夢かと思った。
瞬きをする。
目頭の奥に、痛みと、しょっぱい涙がこみ上げる。




川岸で男たちに捕らえられ、意識を失った。
浩大とも、克右と離ればなれになってしまった。
訳も分からず、布を頭からすっぽり被せられたまま馬車に乗せられたことまでは覚えている。
首筋がいたい。首に縄をかけられ、思いっきり引きずられた痕。
…あの時は、窒息するかと思った。

幸い息を吹き返し「ああ、生きている」と夕鈴は安堵した。
だがいつまでもそのあとはひりひりと痛み、捕らえられ身動きできぬままどんな恥辱を与えられるのかと気が気ではなかった。

それが突然、これだ。

「陛下…!」
声を出したつもりだったのに、さるぐつわをかまされた口からは
くぐもった声が漏れるだけ…。



李順は、橋の正面からその男をジッと見据えた。
相手の手の内にある「花」が――今こそ何であるか確信をする。

最悪の状態にあることを知った。


男の頭に乗ったつば広の被り物から垂れた布は顔に影を落とす。
川風に翻り、チラチラと見え隠れするその男の輪郭、細い顎と雅な体つきに、
李順は見覚えがあった。

「あなたでしたか…」
李順は静かながら低く、力のこもった声で尋ねた。

夕鈴は手荒なことをされたに違いない。
(ここで怒ってはなりません。心を乱しては相手の思うツボ)と李順は心を抑えた。


橋を渡りきることなく
岸まで三分の一ほどの距離を残して、男は立ち止まった。

「陛下。
わざわざお呼び立てして申し訳ございません」

黎翔は無言だった。

どこを見るともなく遠い目をしていた。

「お分かりになりませんか?
あれほど愛おしんだというのに
…冷たいお方だ」

男は手元の女をチラリと見て、
くっくっと笑った。

「さあ。
妃というのは、儚い立場でございますな。
わが妹も…まさにそうでございました。
大貴族の娘に生まれ、蝶よ花よと愛されたあの麗しい妹が。
王の子を、しかも男児を生みながら。
ああして今は片田舎に引っ込まされ
一臣下の母に落とされ
誰からも顧みられることなく
打ち捨てられる…。

あれほど美しく、華やかな都に似合う者もいないというのに」

男は傘の端を指で持ち上げた。
美しい顔立ちは、雅な生い立ちを忍ばせた。

「わが妹、蘭瑶を。
あなた様の弟君、晏流公を。
――どうか都にお呼び戻しくださいませ。
わが君よ、どうか私の願いをお聞き届けください」

「ほう…?」
黎翔は目を細めた。

李順はこれは願いでも何でもなく、単なる脅しではないかと
静かな二人の間にピリピリとした空気を感じていた。

「わが願い。万が一にもお聞き届けいただけない、とあらば。
いつでもこの手の中にある『花』は手放せるのですよ?
この川の流れは急流で。
ここから落ちれば、どうなることか――
花一輪。あまりに、もろく儚い存在にございます」


ああやはり、と李順は思った。

蘭瑶はさる大貴族の娘で、華やかな生い立ちを歩んだ。
その兄、目の前のこの男も。
先々代の王の時代には羽振りよく暮らしたものであった。

だが、時代は乱世となり、武力に優れた王が台頭した。
冷酷非情の狼陛下。即位後、早々に内乱制圧、内政粛清を行い、名実共に中央政治の実権を掌握した王。
腐敗した貴族文化は徹底的に一掃され、この男の家門もかつては栄華を極めしも、
いまや一貴族の平凡な地位へと押しやられているのであった。

「晏流公の扱いの詮索はともかく。
なぜ蘭瑶を王都へ呼ばねばならぬのだ」

黎翔は冷たく言い放った。

「…それは、あなた様の大切な花を。
あたら散らそうとは、お思いにはなりますまい――?」


男は引きずるようにつれている女を黎翔の方へよく見えるように引き立てた。

「そのようなものは――知らぬ」

黎翔は答えた。


『知らぬ』

その時、夕鈴はズキン…と胸を射抜かれたかのように動きを止めた。

氷に心臓を閉じ込められたように
夕鈴は希望のすべてを失った。


黎翔の瞳は、夕鈴をとらえていなかった。


(狼陛下のときだって。
たとえ冷たい視線であっても、
あの方の眼は
まっすぐ私を捕らえていたのに―――)

かつて、目と目があえば微笑み返した。
妃にだけは甘い甘い狼陛下。
子犬のように自分にだけ見せた笑顔。
不思議な色を帯び、燃えた赤い二つの宝石。
凍り付く思いで突き放された、あの時でさえ…

陛下は、私を見ていた。


なのに、今は
まるで水か空気を素通しするように
一切、『見て』くれない。

存在を否定されることは
生きている甲斐をも一瞬にして失わせた。


(陛下は
…私を知らない)

夕鈴は、一縷の望みを捨てきれていなかった。
だから、その事実を目の当たりにすると絶望で心がきしんだ。


『あの方は薬の力で己の中の記憶を消した。
彼女の姿形はもちろん、存在すら認識できない。
すべてを失った』

浩大の言った通り。

…ああやはり、と思いながらも
希望を失った心に落胆は大きくのしかかった。

打ちひしがれた夕鈴が、視線を落とした。



男は慌てるそぶりもなく、しばしの無言のあと、
ようやくゆったりと話を継いだ。


「さすが冷酷非情の狼陛下といわれるお方。
沈着冷静なポーカーフェイスは
まこと、お見えでないかのごとく…。
さすがわが君とおたたえ申し上げましょう。

…がしかし、
巷にはよく似た『まがい物の花』も出回っている昨今…
どうぞお近くまで。しかとご確認いただいてもようございますよ…側近殿?

まあ、かつては後宮に一輪、咲き誇った花といえど、
少々汚れたままにて気が引けますが…
元々出自卑しい女なれば、さして見劣りもいたしますまい。
…今日のところはお許しいただきたい」

頭はボサボサ、旅装姿で砂埃にまみれ疲れ切った様子の夕鈴は、明らかに略奪され暴力を振るわれたに違いなく、李順はそれが酷いことでないよう心を痛めていたものだから、猶更に男の言葉は李順を刺激した。

(それほどに、狼陛下の妃を…辱めたいのですか?)
李順はギッと思わず男を睨んだ。

「おや…恐ろしいお顔をなさる。
それとも。
あちらに潜んでおられる、お付きの方々に面通しを願いましょうか…?」

男は、フフフと優雅に笑って、少し離れた木立を指差した。

方淵と水月は少し離れた橋の見通せる木立の陰から息をひそめて様子をうかがっていたが、男にこちらのことを察知されていると知りギクリとした。

そもそも潔い方淵は、逃げも隠れもする気はない。
そこまで言われては、と木の影から姿を現す。

水月は「はぁ…」と小さくため息をついて、続いた。

「ああやはり。
今を時めく両大臣のご子息――政務室補佐官の御二方でしたか。
これは都合がよろしい。
なにしろ、かつて後宮を独り占めしたお妃さまの大のお気に入りで、
かつて恵花宴の手柄をたてられご出世されたお二人だ。
贔屓厚く愛でられた間柄、
よもや真贋を見誤ることもございませんでしょう…」

今は政治の舞台から一線を退いている家門の男の言いぐさには
少々とげが含まれていた。

「…」
方淵はむすっと唇を結び、すたすたと陛下と李順の方へと向かった。

「では、お二方。ゆっくり、花検めをされてはいかがか。

…ああ、腰のものはそこへ置いて。
万が一にも襲われてはたまりませんから

…とはいえ怪しげな動きがあれば
このように不安定な橋の上でございますから。
わたくしの手元が怪しくなって、いつ何時、
大切な花を川へ落としてしまうやら…」

くくく…と男は薄い唇をひきつらせながら嗤った。

方淵は腰に佩いていた剣の下げ緒を解き、地面に置いた。
「おい、お前…!」

方淵ににらまれ、水月は答える。

「もとより無骨な武器は身に着けてなんかいないよ。」

「…懐の」方淵が睨む。

「え? 懐の笛も手放さねば、だめなのかい?
いやだな…大切な楽器を、地面に置くだなんて――」

「笛も――。遠慮いだたきましょう。
仕込み暗器など、常套手段ですから」

水月は悲しそうな顔をして方淵に倣い、笛の入った金襴緞子の袋を地面に置き、橋に向かって歩きだした。

「他に武器等ございませんでしょうな?」
しつこく確認をされ、方淵は
「武官でもないのに、そうそう武器を持っていてたまるか!」と正面切って抗議した。

「結構。ではどうぞこちらへ」
水月と方淵が橋の袂へと辿る。

「おい、ぐらぐらするんだろ?
私は高いところが苦手なんだ。
…君から行けよ」
水月は小さい声で、方淵の背中をツイと押した。
方淵はむっとしながら水月の方を振り返り、キッと睨むと一言小さくつぶやき、前を向き直って先に橋を渡り始めた。
水月もたどたどしく、揺れる吊橋を後から渡る。


夕鈴は、近づいてくる方淵と水月をじっと見つめていた。
方淵は怒ったように目を吊り上げ、夕鈴の顔を見つめた。

(馬鹿者…馬鹿者…馬鹿者―――!)
方淵の眼は怒りで燃えていた。

黎翔と李順はずっと無言で二人を見送った。

方淵と水月の緊張した面持ちをみるにつけ、黎翔はそこに『花』と呼ばれる人物がいることを認識するのだが、頭の中ではイライラと金属的なきしむ音が小さく続き、頭痛がするばかりで、一向に視覚情報はまとまらなかった。

小さな声で黎翔は李順に尋ねた。

「本当に、そこに誰か?」

「陛下…お分かりに、なりませんか?」

(陛下は、本当に分からぬのですね…。
お見えには、ならないのですね?)

李順には、たとえ遠目であっても、分かる。
花検めなどせずとも、あれは夕鈴本人であると確信していた。

(陛下を見つめたあの瞳は――間違いありません。
悲しいかな、あの、小娘ですよ)と、李順はため息をついた。

ぎいっ…

ぎいいいい…

つり橋をきしませながら、方淵と水月は、男達の方へと進む。

方淵と水月が近づくにつれ、夕鈴は泣きそうな顔になった。

いつも以上にしかめっ面をした方淵が来てくれることは、
安堵とか懐かしい、というより
むしろ辛い。

(なぜ、捕まる!!
なぜ、そのようなところで
陛下の足を引っ張る―――!?)
と、
方淵に自分が責められていると感じ、
夕鈴は胸がつぶれる思いだった。


水月はとても硬い表情で
いつものように優しい笑顔を向けてはくれなかった。

(水月さんにまで…私は見捨てられた?
いっそ、このまま、自ら身をなげて…)

夕鈴はきゅっと唇を噛んで決心をした。


―――陛下には会えた。

陛下は私のことを覚えていない。

陛下の足手まといになるくらいなら、いっそ…



男を振り切って、いつ川に身を投げようかと
絶望の中の救いはもうそれしかない…と思われた。

なのに、縛り上げられ、しびれすら切れた夕鈴の腕に自由はなかった。

見た目は雅で華奢に見える男だが、
力は男のそれで
女の夕鈴はよたよたと引きずられながらもガッチリと逃げ場がない。

逃げられないのなら、
…いっそ、この人と諸共に――?

だめ――。
陛下を陥れる悪い人? 
でも、晏流公のお母さんのお兄さんだ、って…。
ちゃんと話を聞かないと。
私の勝手な判断でもし、これ以上陛下を困らせることがあったら
……できない。

指をなんとかほぐそうとしたが縄が食い込み動けない。
陛下はとっくに私のことを忘れた。
私のことは、もう二度と目に入らない 
それなのに

逃げることも、死ぬこともままならず、
ただ陛下の足かせになるのが悔しくて―――

夕鈴は涙がにじんだ。


「そこで止まれ」

一間の間合いまで近づけたものの、腕を伸ばしても届かないその距離で男は二人を静止させた。


「さあ二人とも御覧じろ。
この惨めな女が、かつて陛下の唯一の花だったと。
――確かに本人であると
陛下にご報告申し上げるがよい!」

風が男の被り物の布を舞い上げた。
男はまこと涼やかに麗しい顔で、笑った。


*

忘却の岸辺(19)

【過去ねつ造】【今もねつ造】【ネタバレ】【シリアス】【暴力※】

※夕鈴、方淵が痛い目にあいます。
暴力シーンが苦手な方はご無理なさらないように。


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(19)
* * * * * * * * *

男にとらわれた夕鈴。

その目の前に、方淵と水月の二人。
夕鈴は目を見開いて、その様子を見守った。

一間ほどの距離でとどめられ、それ以上彼らの距離が縮まることは無かった。
誰も口を開くことはなかった。


急流の上に渡された吊り橋は、方淵と水月の二人が歩くのをやめた後もしばらく
ギイギイときしみながら揺れていた。

揺れが収まるまで暫く待ってからようやく目の前の男は、縛り上げた女の背中を押し
「さあ、どうぞとくと花を検められよ」と付き出した。

方淵も、水月も、ニコリともせずに
あたかも路傍の石でも見るかのごとく、目の前の女を見下した。

「声も、聞かせたほうが良いか」
男は夕鈴の口に噛ませたさるぐつわのキツイ結び目を、ゆっくりとほどく。

口元があらわになれば、猶更に間違いようもなく
王の唯一、その本人であると方淵も水月も確信を得た。

「ほら、何か。
喋れ――」

「…うっ!」
カラカラにのどの乾いた夕鈴は、うめき声しか上げられなかった。

何を話せばよいのだろう――。
夕鈴はためらった。

(目の前の二人の名を呼んでもいいの?
…でも)

夕鈴が声を出せなかったのは、
二人はうかつに名を呼ばせてはくれないほど冷たくよそよそしい素振りだったからで、
正直、彼女は悲しくて声が出なかったのだった。


「何か話さんかっ!」

男は声を荒げ、彼女の背中を棒のようなもので強く打った。
夕鈴は思わず「ああっ――」と大声を上げた。

「ほれ、声を聴かせねば、分からぬではないか!」
男は二度、三度と棒で夕鈴の背を打つ。

夕鈴の叫び声は橋のたもとの李順にも聞こえた。

痛ましかった。

だが、表情を変えることはできない。

(…あの二人も、よく分かってくれているのですね)
李順は唇を噛んだ。

――二人からすれば、ここで夕鈴と親しげな様子をとることで、
分を良くすることは何一つなかった。

察するに、相手が「検めよ」という背後には
『これこそ本物』と口では言いながらも、
男本人には最終的な真贋の確たる証拠がないのだ。

王の唯一の花は、王のみが愛でる花であり
身近に接することが許される人物は限られていた。

であるから、この花を切り札として王と交渉に臨むために「この女こそ、王の唯一の花である」というお墨付きをもっとも欲しているのは男自身であり、方淵も水月もそんなことはお見通しだった。

切り札を相手にホイホイと手渡すつもりはさらさら無い。

暴力を振るわれる彼女を目のあたりにするのは身を斬られる思いだった。
だが陛下のために、今は知らぬ顔をして通すべきなのだと、方淵も水月も必死に心を押し殺した。

(…冷たい、目)

夕鈴はその冷たい視線から目をそらし、目を閉じた。

心の痛みよりも、
体の痛みに耐える方がずっと楽だ。

(お二人からも、呆れられて。
見放されてしまった…)と
夕鈴の胸の中は真っ暗に染まり、絶望はさらに深まった。


「…ふふっ」
氾水月は相手を見下したまま
白い顔にすらりとした指を寄せ、まるで呆れたように
失笑をこぼした。

「なるほど。あなた様には
そちらの“気(け)”も、おありなのですね」

変態扱い…。
その人をくった態度に、男は一瞬鼻に皺を寄せた。


方淵もいつも以上に苦虫をかみつぶした顔で、
面白くもないとばかりに、感情も抑揚もない声を張り上げた。

「――あいわかった。
“それ”が貴様の粗末な手札であると、わが敬愛すべき陛下に、とくとお伝え申そう」

柳方淵も氾水月も大貴族の御曹司であるから、
こういうときに相手に気圧されないために、どう振る舞ったらよいかを知っていた。

――不遜に、狡賢く。腹の内を顔に出すな――それこそが主家に生まれた者として、世の中で生き残る武器であると幼い頃から叩き込まれた。

「…粗末な――?」

大大臣の息子とはいえ、ほんの若僧から受けた軽いあしらいに
男はやや苛だった。

「――なるほど。
では生かすも殺すも
何ら、その方ら痛む心はない、と――」

男は夕鈴の背中をグッと押し、つり橋の両脇にある手綱に押し付けるように彼女の上半身を乗り出させた。

「きゃあぁっ」
夕鈴は先刻まで自ら飛び降りる覚悟までしていたものの、
急に力づくで押し出され、高い橋の上から眼下の急流が目に入れば
思わず恐怖で叫び声をあげてしまう。

(妃がっ! …突き落とされる?!)

方淵と水月はそれを見て、思わず体を動かしてしまう。

方淵は小さな手刀を袖のなかで握り締め、大きく振りかざした。

それは「武器をすべて捨てろ」と促され、身に帯びていた剣を放棄させられた後、つり橋を渡り始める時に背中を押すふりをして水月が手渡した、小さくとも唯一の武器だった。

『妃をこちら側に取り返すためには、今しかない』と
方淵は己の全体重をかけ橋桁を力いっぱい踏み込み、
男に手刀を突き出し、夕鈴に手を伸ばす。

ぐらりと橋が大きく揺れた。

若い方淵は躊躇することなく小さな武器で勇敢に挑んだにもかかわらず
周到に間合いを計っていた男は、杖がわりにしていた六尺ほどの長棍を突き出し、
方淵の右肩を突いて体ごと方淵をはじき返した。

後ろに居た水月もろとも、足元のおぼつかないつり橋の上で尻餅をつく方淵。

吹っ飛んできた方淵の体を受け止め、水月は橋の上に伸びた。

「すいげつさんっ!?」

夕鈴は半身を橋の外に押し出されながらも、必死に振り向いた。

尻餅をついた方淵は、後ろ手をついてすばやく上半身を起こす。
棍棒を振りかざす男を見上げた。お互い、これ以上の戦意は失せていた。

脳震盪でも起こしたのか水月は目を回し伸びていたが
方淵が乱暴にその腕を引っ張ると、目をぱちぱちとしばたたき意識を取り戻した。

「柳、方淵――」
夕鈴は名を呼んだ。

「馬鹿っ! だから貴女という人はっ…!」
方淵は彼女の視線がいたたまれず、返事をしてしまう。

「…ほう。ということは
やはり本物、ということで」

直情的な方淵は悔しさに思わず目を伏せてしまった。

その様子をみれば、聞かずもがなと男は勝ち誇ったように笑った。

「では、大切に遇せねば、な」

男はゆっくりと夕鈴の背中を引き戻し、再びその縄をきつく引き寄せる。

夕鈴は涙を浮かべ、方淵と水月を見つめた。

水月は頭を振り、やっとのことで体を動かした。
揺れるつり橋の桁と桁の隙間から見える高さに目がくらむ。

「ごめん。…私は高いところは苦手なんだ」

水月は頭を手で押さえ、方淵に愚痴た。

「…武器は全て置いてくるようにとお願いしましたのに。
その手のものは――?」

男はいたぶるように方淵を棍で何度も突き、
その武器を持った手をグリグリと押し付けた。

「…や、やめて!
あの御方の中に、私など存在しません――!
だから、
その人たちに、酷いことをしないで…!!」

夕鈴が叫ぶが、男は一際勢いよく棍を突きこみ、方淵の掌はグシャと嫌な音を立てた。

「やめて――!!」

悲鳴に近い鳴き声を聞きながら、水月は目をつぶった。

…小さな手刀はカラカラと桁の隙間から滑り落ち、
川面に吸い込まれていった。

方淵は怒っていた。
手を潰された痛みよりも怒りの方が大きかった。

青白い顔に精一杯の嫌悪を込め、男を見つめ返した。
そして一瞬背後を振り向き、ギッと水月を睨むと、自分だけさっさと揺れる橋の手綱を探りながら立ち上がった。




黎翔と側近の二人は橋のたもとから彼らの様子を見つめていた。

李順は人に聞かれぬよう、小さなため息をついた。

黎翔の赤い瞳は透き通るようだった。
武人としての彼は冷静で―――だから、その瞬間を見逃さなかった。

方淵が踏み込んだ瞬間、男は方淵の武器を持った手元ではなく、彼の足元をチラ、と見つめたのだ。

「――橋桁に。何か細工をしている」
黎翔はつぶやいた。

「え?」
李順が問い返した。

「あの男はきっと。次に私を橋の上へとおびき寄せる。
そのためにまず二人を呼び、安全だと見せかけ――そしてあの場所で私に仕掛ける気だ」

「それは…危険です!
陛下は決して誘いにのってはなりません!」

黎翔はつぶやいた。

「そこに、あるのだろう?」

「――え?」

「私の。

見つけなければならない
…過去が」


* * * * * * * * *

水月と方淵が橋を引き返し、戻ってくる。

手には書を携えていた。

「…これを、陛下に、と――」

「うむ」
李順が水月から手渡された書面を受け取り、広げる。

「本当に申し訳ございません。
ご期待に沿うことができず――」

方淵が報告をする間、水月は狼王の怒りに触れることを恐れ、今にも息を引き取りそうな面持ちでカタカタと震えていた。

「陛下、これは…」

李順が示した書の内容は、いわゆる草稿のようなものだった。

王弟、晏流公を王都へ呼び戻すこと
その母、蘭瑶も同じく王都へ呼び戻し、
二人のために新たに宮を設け、禄として十分な領地を与える
更に、
王の後継者として王弟、晏流公を指名する

それは明らかに先方の言いなりの傍若無人極まりない内容であった。


「これに陛下の御署名をいただき
陛下お一人で橋の上までおいでくださいませ、と。

陛下の御手よりその玉稿をお渡しいただければ
交換条件で妃を引き渡すと
あの男は…

誠に、申し訳ございません――!」

方淵は悔し涙をにじませ、地に伏せ王に詫びた。

黎翔は静かに答えた。

「…よい。

二人ともよくやった――」

黎翔は李順を振り返り、左手の指先を宙に軽く振る。
李順は懐から携帯用の筆の収納されている矢立を取り出しながらも躊躇した。

「本当に
…宜しいのですか?」

「構わん」

「なぜそこまでする必要があるのですか?

――あなたは。
すでに、一度
失っているのですよ?

死ぬ思いでようやく手放したものを
また手に入れるおつもりですか?

あなたの未来に影を落とすと分かっている
このような条件の取引で――」

黎翔は笑った。

「死ぬ思いで、失った…か。

――ならば、これ以上
失って惜しいものなど
この世に無かろう?」

李順は必死に黎翔を押しとどめる。

「この書面の内容を拝見するかぎり
…あなたの先ほどの読み通り。
とすれば――」

「この書を受け取り次第、私は用済みだ。
…私の命を狙ってくるだろう、な」

「分かっていて、乗るなど、あなたらしくもない!」

「私らしい?
――私とは?」

黎翔はゾッとするような冷たい声でつぶやくと、
クックックと小さく嗤いを漏らした。


黎翔は李順から差し出された筆をとると、
相手の差し出した草稿にさらさらと署名をした。

「陛下――おやめください!」

李順は真正面から黎翔を諭した。

「…このような紙切れ一枚で
何もかも割り切れるというのなら。
世の中はなんとたやすいものだ、
なあ。李順?」

黎翔は潔く、軽やかに前を向いた。

「お命を、狙われていると分かっていて――」

「案ずるな、李順。
この書面が奴の手に渡らぬ限り、私に手出しはできぬ。

しょせん冷酷非情の狼陛下。
嫌われることには、慣れている」

黎翔は書き終えると筆を戻し、李順の肩にポンと軽く手を置いた。

「…少しくらい、好きにさせろ」

「陛下――っ!」

何か算段があるのですか、それとも?

(…陛下の御心のうちはちっとも読めません)
ただ、
黎翔がこれほどに執着するものはかつて無く、
その眼をみれば、李順に止められないことは分かっていた。

一度失い、見ることも、聞くこともできぬ過去を
できることならば今一度取り返してほしいと、
もしかしたら李順自身が願っているのかもしれないと…。

それがいったい誰の願いなのか
それとも呪縛なのか――当の李順にすら、分からなくなっていた。


黎翔は書を携え、橋に足を掛けた。

「陛下っ! 何卒、わたくしにその代理、お命じください――」

方淵が立ち上がり、王にすがる。

「もとより、あやつの狙いは私。
お前たちは手出し無用だ。

これだけは命じておく。
――片が付いたあとは、必ず捕縛せよ。
生かしておけ――」

思いだしたように、黎翔は腰に下げた剣を解き、李順に渡した。
李順は王の愛剣を恭しく受け取った。

「預ける」

「お預かりいたします
…陛下。必ず御手に、
お返し申し上げますよ」

黎翔はふっと頬を緩めて背を向けた。

「では、参る」



* * * * * * * * *

「書状はお持ちですかな――?」

男の声が淡々と響いた。夕鈴は黎翔の前にいた。

陛下が目の前にいる。
…自分がここにいるせいで
多分、陛下は窮地に追い込まれているのだ。

夕鈴はもうこれ以上、誰にも傷ついて欲しくはなかった。

「これか?」
黎翔は懐から書を抜くと、男に向けて広げてみせた。
風にあおられバタつくそれを危惧して男は眉をひそめた。

「風に飛ばされぬよう…
お気を付け遊ばせ」

「王弟とその母を王都に戻し、
私が亡きあとの後継者に据えるが
お前の望みか」

「私は…愛しい妹、蘭瑶が
王都にて華やかに安寧に暮らすことができさえすれば
それが何よりの幸いなのですよ。

今まで苦労し憂き目を味わった分、
妹にも、その子にも、十分幸せになってほしいと
――血を分けた兄のささやかな願い、お聞き届けくださいますな?」

「…愚かな」
黎翔はつぶやく。

男はゆっくりと夕鈴を押しのけ、自分が前に一歩踏み出す。

「愚か――?
そういうあなた様こそ。
生まれ育ちもろくでもないかような者に心とらわれ
王宮を無秩序の混迷に陥れたご本人ではありませぬか――」

「なるほど。
それがお前の言い分か」

「あなた様が秩序をやぶり
国に憂いを与えているからこそ――
私は、麗しき蘭瑶の子にして正しいお血筋である晏流公をお立て申し上げることで、国の秩序をただし、民を安寧に導こうと申しているだけにございます。

さあ――その書状を。
お渡しくださいませ。

大人しくお渡しくだされば、
ほれ、ここにいるあなたの愛した唯一の妃を
自由にいたしましょう」

黎翔は不思議な面持ちだった。
見えないものが人質だということに。

誰もが見えているという自分の愛した唯一の妃という存在。
自分は本当にそれを愛したのかすら、分からない。

そういう意味では、目の前の男が手にしているそれは、質ぐさとは言い難かった。

『交換条件』といっても、そもそも目に見えぬものを、どうやって交換する気なのだ――?

手の内に何も札がないくせに、こうして体を張って博打に乗るなど。
バカバカしいほどの自信家だな、私は。

(可笑しいな。
私は何をしているのだ)

ここまでくれば或は何か分かるのかもしれない、と儚い期待を抱きながら、ゆっくりと橋を渡ってきたものの、あいかわらずその存在は見ることも、感じることもできなかった。

手の中にある書状が国の行く末を左右する大切な取引材料であることを知りながら
それとは別に、変化のない自分の感覚に対し、寂しいような諦めに近い焦燥を覚えていた。

にもかかわらず、培った頭脳は別次元で、冷静に働くのだ。

――男の視線の先。
どこかすぐそばの桁に、細工が施されているのだろう?

おそらくは、足を乗せれば簡単に踏み抜けて、谷底に落とす算段であろう…。
黎翔は素知らぬふりを装い、内心はジリジリとして予測している。

「陛下…
やめてください」

夕鈴はかすれた声を絞り出した。
だが彼女の声は、黎翔には届かない。

「陛下、やめて――!」
夕鈴は、叫ぶ。

彼の視線は、決して夕鈴を捕らえることはない。

「さあ、渡せ、それを――!」
男が手を精一杯伸ばす。

(そこが限界か…)

黎翔はゆっくりと近づき書をかざした。

その時、夕鈴は気が付いた。


その書も、自分も
無くなってしまえば。


元より、彼女は望んでいた
『あの方のお役に立ちたい』と。


(陛下の足かせになるくらいなら。
命など、惜しくもない)

夕鈴は思い切って、あとは素早かった。
ただ、体が動く。

背を向けていた吊り橋の高欄の綱と男の脇をすり抜けると、
黎翔めがけて体当たりをする。

精一杯首をのばし、自由になった口で、黎翔の手にあった書を咥え、奪う。

黎翔は手元に暖かい風を感じた。
その瞬間、

白い首筋にくっきり浮かんだ、赤い縄の痕が見えた。

首を、絞められた――縄の痕


黎翔の血が逆流する。
時計が止まった。

そして今度は一瞬のうちに噴出する

――僕を
忘れて、

狂って。
母上は

…首を
吊った――


狂った時計が駆け足で脳内におびただしい情報を再生した。
それはほんの一瞬でありながら、
狂気の嵐のように黎翔の身の内を翻弄し駆け巡った。


首筋の、赤い、縄の痕

――はは、うえ?

違う。

明るい 茶色い髪の――

大きな、優しい目…


私の…愛しい


――夕、鈴…!?


「夕鈴――っ!」

黎翔の眼は、その時見開かれ、彼女の像をその網膜に結んだ。

その瞬間、
彼女は例の橋桁を踏み…

脆く細工を施されていたその桁板は、
施工主の思惑通り見事その役割を果たした。




男が「あっ」と声を上げている間に、
書をくわえ、もろとも彼女は落ちた。


黎翔は
谷底へと吸い込まれる彼女を追い――




*

忘却の岸辺(20)完

最終回。
暗いお話にお付き合いくださり、ありがとうございました。

【ゾーン※増量中】【過去~未来まであまねくねつ造】【微妙にネタバレ】【甘甘】
※ゾーン、超集中状態の至高体験(ピークエクスペリエンス・ゾーン・フロー)、であるからして、モノローグがたとえ5ページだろうが10ページだろうが、一瞬なの!ったら一瞬なの。


* * * * * * * * *
忘却の岸辺(20)完
* * * * * * * * *

ねえ、母上。

茜色の夕焼け空に浮かんだ雲のことを覚えている…?
辺境の北の地の空気は澄んでいて

秋の日の落ちる間際は、それは見事な夕焼けが広がり
世界は血の色のように染まっていた――


『ぼくいなければ
母上は、幸せだったの――?』

母は困ったようにその問いに答えることはなく
ただ瞳をほんのりと曇らせ、私の頭をなでた。

『黎翔が、
私の幸せのすべてよ。
それだけは、決して
忘れないで』

そう言いながら母上は
あの日を境に、私のことを忘れ去った。


薬をあおり
苦しみ這いずり回り、闇をのたうちまわった挙句、
美しかった母は、見る影もない別人となり
私を忘れた―――。

あの人はすべての幸福を手放し
封印したまま、狂気の世界の中で疲弊し

やがて、自ら首をくくってこの世を去った。


首筋の、赤い縄のあと――
苦悶の中で
忘れ果てたはずの私の名を
最期に一度だけ、呼んだのだった

ごめんね、黎翔…

たしかに、そう、つぶやいた。

どうしてこれを忘れていたのだろう…と思いながら
黎翔は多重に重なる世界を別の視点から覗き込んでいた。


あの日、幼い私の
目の前で起きた凶事。

冷たい母の手。
苦しみぬいて歪み引き攣ったその白い顔は

すべて自分のせいで起きた出来事と思いこんでいた。

静まり返った西日の北の地の寒さに震えながら

母の首筋の赤い縄痕を
小さな私は見つめていた――



私が生きている限り
幸福は訪れない。

一時に圧縮された記憶が、体の中を嵐のように通り過ぎた。

後悔、
自分の存在への罪悪感。

にもかかわらず、黎翔は
混乱の中に見出した小さな光にむけて
思わず手をのばさずにはいられなかった。


――ごめんね、黎翔…

頭の中でこだまする声。


「…母上
――わたしを
許してくださいますか?」

黎翔はその幻影に詫びた。

過去と現在をオーバーラップし
混乱の極みにある黎翔の目前で、

いままさに
夕鈴は
微笑み
落ちて行く。

黎翔が手にしていた、後継者を晏流公と指名したその大切な覚書を
自由になる口でくわえ、もぎ取ると
そのまま、壊れ落ちた橋桁の上から谷底へと吸い込まれる。

黎翔にとって
その瞬間は、まるでスローモーションのように
ねっとりと感じた。


もどかしい
もどかしい
体と心を縛るもの


『今までずっとあきらめていた。
私には、望むことすら許されない
手に入るはずのない、幸福だと』

黎翔の心をきつく縛っていたのは、
身分低き美しい妃が、時の王の何もかもを虜にしてしまったことと
その二人の間の王子として生まれた自分の出生ゆえの運命で。

父は母のため国を揺るがし
母は私のため命を絶った

父母ともに不幸に陥れた
自分という存在。

それは逃れられない業であった。

そんな自分だから、
幸福など、望むことすら許されないと
黎翔は信じていた。


『…そう。たぶん、私は物心ついた時から、思いこんでいたのだ。
私は幸福になど訪れない…幸福など求めてはいけない、と。
幸せになる術などないと諦め、全てを切り捨てていた。

それは、たんなる呪縛に過ぎなかったのですか――?』

母が父を堕落させ
王が妃や後宮のために国を傾けた。

国民から見れば、
それが事実。

自分はその二人の結実であり、負の象徴なのだ。

その過去の負債を立て直すために
国を立て直し、後宮のいままでのあり方や王宮の闇を払しょくするためには
強く誰からも恐れられる王でありたい、と選択した

その道の中に
黎翔自身の『自分の幸福』というものは一切含まれていなかった。

だが、それは、真の王の道だったのか――?

黎翔は膨大な負の記憶の奔流の中で、一つの光を見出したのだ。


推し量れない何か
見えないものの中にも
…小さな真実が潜んでいることを。

このような“自分”のためにも、
未来とか、
小さな希望とかを
この世の中のどこかに、潜み隠し置いてくれているとしたら――!?

黎翔は、
祈った。

「こんな私でも
――手をのばしても、良いのですか?

――許してくださいますか?」

脳裏に浮かぶ母の幻影。

それは母を亡くして以来、初めて
黎翔の中で、くっきりと像を結んだ。




すっと白くなり
目の前の彼女の顔が重なる。

こんな時だというのに。
君は笑うのか――

「ゆう、りん…?」

君に笑っていてほしいと、
君の笑顔だけが見たくて――

失った過去と意識が繋がる。

擦り切れ喪失したはずの情報のかけらを
つなぎ合わせ再生するきっかけが訪れ――

黎翔の中でそれは一度に再生され
膨大な情報となって再び甦ったのだった。

目の前の彼女の像に五感は再び解放される。

* * * * * * * * *

それは、長い長い時間のようだったにもかかわらず
現世の時間に置き換えて、ほんの瞬き一回分にすぎなかった…

黎翔の時は、動き始める。

彼の瞳は、彼女を捕らえ
微笑んでいた彼女は黎翔の変化に気が付き、
安堵し泣きそうに顔を崩し、落ちていった。

「夕鈴――っ!」

黎翔は叫んだ。


橋桁を思いっきり蹴り、落下速度を増す。
手を伸ばす。

不思議と、恐怖はなかった。

自分の意志で、手を伸ばす――もう、二度と失わない。


風を切るビョウビョウという凄まじい音の中、恐ろしいほどの速度で落下することよりも
君を、再び得ることができる喜びの方が大きかった。

風に立ち向かう鳥に見えた

衣の端を捕らえる。
腕任せに手繰り寄せ、とっさに頭を胸に抱きしめ抱え込んだ瞬間には
もう水面に突っ込んでいた。

晏流公を後継者と認め、国王が署名をした書は
風に引き裂かれ、水流にもまれ、散り散りとなった。


人質となった妃は―――
王は―――

李順は一瞬の出来事に硬直しながらも
ザブンと水柱が高くあがり水飛沫が吊り橋の高さ近くまで届くのを見届けた。

手負いの方淵が自分の剣を握り締め橋に取り付き駆け出した。

李順が方淵の背中へ声をかける
「陛下の御命令です、捕らえるのです!」

「はっ!」

男は橋の反対方向、反対側の岸辺にむかって走り出した。

「この期に及んで、逃げるつもりですか――!?」

その時、
蓉州側から、一人、大柄な男が走り寄ってくるのが見えた。
李順が目を細め注視すると、すぐに容姿から味方と分かった。

「…克右! 良いところへ――」
李順は声を上げた。

「捕らえろ――!」

克右と方淵に両岸から挟まれ、逃れる術もなく男は身柄を確保された…。


* * * * * * * * *

苦しい…
肺が痛い。
手足がちぎれそうなほど冷たい―――

陛下…

水の下は暗い

水の中は上も下も分からなくて
激流にもまれて、苦しかった。
最後の息は、とうの昔に吐き切った。

川底の何かに引っかかっていて、動けない。
手足すら、動かせない。

陛下、陛下。


ああ、お迎えなんだ。
黄泉の世界はどんなところだろう…。
もう、頑張らなくていいんですね―――


君の務めを果たしたと
もう一度。
最後の口づけをくださった

混濁する意識と引き換えに
体はふわふわと浮遊するような感覚で
魂ごと引っ張りあげられて、明るいところへ…


さようなら。


…陛下。

どうか。

私は、いつだって
陛下の味方でしたよ…
よく頑張ったねって、褒めて、ください――





――ゆうりん

ゆうりん

陛下の声が聞こえる。


「ゆうりん!?」
え――陛下?

がばっと身体を起こせば、
目の前でたき火がたかれている。
私は陛下に抱きしめられていた。

「うそ――!?」
…っていうか、近すぎる。

「動くな」
狼陛下の怒ったような声で私は思わずびくりと体を固くする。

「陛下!? ほんとに」と尋ねると

「ああ」
とだけ短く答え、陛下は力を緩めてはくれない。

「陛下、苦しいです…。
ってことは、私…生きてますか?」

まだ半信半疑。
やっぱり、都合がよすぎる。
もしかして、死んでしまったのかもしれない。

「――ああ」

陛下の声が震えていることに気が付いて、
私はおろおろしてしまう。
そうだ、陛下は私のことを忘れて…だから。

「…あの、失礼ですが、その」

「――」
陛下は、私をギュッともう一度抱きしめると、頬を鷲掴みにして荒々しい口づけをした。

安堵と、切なさで、無性にしがみつきたくなった。
私が必死で抱き付くと、陛下は急に優しくなって
さするように私の背中をなでるから、そのたびに私の眼からはポロポロと涙がこぼれた。

そう。
陛下にとって『口づけ』は、借金返済の肩代わりの時と同じ、
私への支払いで――
陛下が私にたいして、何か負債があるとでもいうのだろうか…。


「…陛下、怒って、ます?
私、私…何か悪いことをしてしまいましたか――?」

涙の止まらない私を、陛下は優しくなで続け、何度も口づけた。

「君が無事で、よかった――」

…怒っているわけでは、なさそう――。

私が手をのばして、陛下の額の前髪をそっと整えて差し上げると、陛下は私の手をつかんでその甲に口づけ、陛下の頬に摺り寄せた。

「…あの、陛下。どうしてそんな風に。
その」

「君を、失わずにすんで――良かった」

陛下が良かったとおっしゃるのなら、良かったのだろう。
でも。こんなときまで女ったらしするところは、やっぱり陛下で…。

「陛下。よかったです――
あの書類がなくなってしまえば…」

陛下は私の頬を捕らえると、目を覗き込んだ。

「無茶だ…夕鈴。
あんな書の一枚や二枚」

「え?」
…あんな、とは。
それこそが、陛下が私に対して負い目に感じているものだと思っていたから
私は思わず当てが外れた。

では、陛下の口づけは、なにの代価――?

「君以上に大切なものなど、
この世にはなにも無いのに――」

陛下は相変わらず大げさで。…だから私にとってはいつもそんな言葉に勘違いさせられて、ドキドキしてしまうの。

「…大好きな、陛下のお役にたてれば。
私は本望ですよ」

自分で言っておきながら、恥ずかしくて
私は思わず真っ赤になった。

陛下がぐっとつめよって…
はっと気が付くと、私は乾いた薄絹一枚しかまとっていないし、
陛下はほぼ裸だった。

「~~~~~っ! あのっ
そのっ、なんですかっ、この格好!!?」

思わず正気に戻る。

「…川に落ちて二人ともずぶぬれで…」
「はいっ!?」
「川の水が冷たくて、君は氷のように冷たくて、息も絶え絶えで…」
「はいぃぃぃぃっ??」
「浩大が下流に駆け付けたが、乾いた衣類は手持ちのその薄絹一枚で…」
「き、き、着替えさせたって…ことですか? きゃーー」
「み、み、見てないからっ!
その、人命救助優先だって!
信じて、ゆーりんっ!」

急に子犬になっても…目の前の陛下裸体のインパクトは強すぎて、
両手で顔を覆う。
もう目をつぶっているしかない。

「…ちょっとまって。
その前に。いまさっき、ゆーりん、なんて?」

ガクガクと肩をゆすぶられ、思わず薄目を開ける。

「え? ですから、なんでこの格好なのか、ですか?」
指の隙間から漏れ見える陛下に、赤面が止まらない。

「その、前!」

えーっと…何の。
ああ、確か、赤面した話のそもそもといえば…

「陛下のお役にたてれば…? のとこ、ですね?」

「その前っ!」

「君以上に大切なものはこの世にないって、陛下が…」

「――その次っ!」

「…大好きな、陛下のお役に――」
再び私はボッと赤くなった。

再び、両手で顔を覆った。
陛下はその手を押し広げるようにして、私の顔を覗き込む。

「それは、――本当?」

「し、し、臣下として、お役にたつのは、とうぜんです――!」

「臣下じゃなくて…」

「ああ。そうですね。
私ただの庶民ですし…
…バイトは解雇されましたし。
じゃあ、一国民として――ですか?」

黎翔はバイトを解雇、という言葉に顔を曇らせた。

「一国民、じゃなくて。
…君は、夕鈴は―――?」

「…一国民じゃなくって…
私?」

「うん」

あんまり悲しそうで。
真剣に陛下が私を見つめるものだから
私はやっぱり、言えるうちに言っておこうと決心を固めることができた。

「――実は
陛下に、一つだけ、お伝えしたいと思って
旅にでました」

「…」
陛下は無言で…。
私が何を話すのかと様子をうかがっているかんじ。


「あの。こんなこと言って、陛下を困らせるってこと
よくわかってるんですけど――やっぱり。
言って玉砕するのが筋かなって――だから、私
あの…その」

「困らせる?」

「庶民の私なんかに
こんなこと言われても
陛下がお困りになるだけって
よく分かってるんです
でも
私、――陛下が
――す、」

「す?」

「……

……
…き」

私は居たたまれず、顔を覆った。

陛下はそんな私を無言で抱きしめて――。



…ああ、ダメだった。
やっぱり。
私の初恋は、終わった――と。



聞こえないように、息をそっと吐き切った――。


「…好き?」
「え」
「…ほんとに――好き? 私のことが」
「…あ、はい。あの、その変な意味じゃなくて…」
「どんな意味って、好きは、好きでしょ?
夕鈴はぼくのこと、好きって――
それ、ほんと?」

「…あ。はい」
私はもういたたまれなくて、両手で隠した真っ赤な顔を見られないように伏せた。

陛下は胸に私を抱き寄せて、頭にチュっと口づけを落とす。

「よかった」

「――え?」

「私には、手に入るはずのない幸福だと――そう信じこんでいたのに」

陛下がもう一度手を伸ばす。
私の指を、一本一本、はがすように開けてゆく。
これ以上なく嬉しそうに微笑む陛下の姿がそこに在って

「君に嫌われたら、どうしようかと悩んでいて――」

「悩み…? え? 陛下が?」
「狼陛下は嫌われ者だし
それに、君に嫌われることばかりした。
――君に好かれるはずもないと」

「すっ、好きですっ!!」

私はもう半分やけになって答えた。
陛下はくすっと笑って。

「…ねえ、夕鈴。もう一度、君との時間を私にくれる――?」

「私、陛下のお傍にいても、
本当にいいんですか――?」

「それが私の、望むところだ」

私は、何とも言えない安堵を味わった。

「それが陛下のお望みなのでしたら――」
私が目を伏せると、陛下はこつんと額を寄せた。

「夕鈴。私はどうやら、
君無しでは――生きていけそうにない」

そういって、息もつけぬほどの口づけが降ってきて
ようやく唇が離れると

「…愛してる」とつぶやかれ
また息苦しいほどの抱擁で私を捕らえた―――。

まるで恋人みたいだと、思った。

「ヘーカ。おかしい。
そういうのは、恋人に――」

「…恋人だろう? わが妃よ」

唇を指で触れられ、もう一度口づけをねだられた。
だから、もう…私はとめどもなく与えられる陛下のそれを受け入れるだけで精一杯だった。


そして突然、嵐はピタリとやんで
ふと見返すと真剣なまなざしで陛下が私を見つめていた。

「こんな私が、
幸福を手に入れることなど、
許されるのか――」

まるで答えを聞くのを恐れるように。
それでも答えが聞きたいと、陛下は私の言葉を待っていた…。


「あなたはこの世に許されないものなど、ありませんっ!
私の大切な王様。…あなたが不幸になったら
…それこそ、私が許しませんっ!」



たぶん、これは夢か。

それともやっぱりさっき、死んでしまっているのかもしれない、と
私はもう一度考えながら
陛下の長い長い抱擁と深い口づけを受け取った。




そのすぐ後、
李順さんが馬車を仕立てて迎えに来た。

浩大が知らせたらしい。

暖かい衣類、温石、飲み物…。
次から次へと渡され、シッカリ着こまされながら、その間中ずっとガミガミ叱られながら川下からほど近いにもかかわらず、馬車に揺られた。

注意深く人払いをしてひっそりと宿舎の館に戻ると「あなたはここにはいないはずの人ですから」と陛下の部屋に留め置かれた。

私はその夜を、陛下とすごした。



その後、王宮にもどっても
私は陛下のお傍らから離れることはなかった。

その後、晏流公と蘭瑶様を王都にお迎えすることになった時には
私は正妃の立場をいただいていた。

それに関しては柳大臣、氾大臣の後見により誰も口出しできなかったそう。

私と陛下の間には可愛い御子に恵まれ、その後、陛下は改革を行われ後宮問題はとりざたされることもなくなった。

美しく華やかな蘭瑶さまは、王都での生活をご満喫されていらっしゃる。
息子大好きな蘭瑶さまの溺愛ぶりはどうやら妹大好きな兄上と同様御血筋のようだったみたい。
捕らえられた蘭瑶さまの兄君はその後、地方でのご職務を長い間全うされ、つい先日王都へと戻ったと聞く。
方淵への謝罪を聞けたことで、私は陛下にお願いをしたのだった。
蘭瑶さまを思うお気持ちゆえの行為にもう一度チャンスを与えてほしいと…。

弟大好きな私と、息子大好き蘭瑶さまは意外にお話があうものだから、ついつい意気投合し、今はときどきお茶をご一緒する仲となった。

晏流公は自らの御意志で一臣下としての立場を逸脱することなく振る舞い、青慎と同期で官吏登用制度に合格、王宮にお入りになり狼陛下の御代を支える有能な補佐役をめざしていらっしゃる。

狼陛下の御代はますます栄え、盤石な体制へと整ってゆき、今や白陽国の王都は諸外国の中のどの国よりもにぎわう屈指の町となった。
その陰で働く有能なかたがたのご尽力と、そして、なにより陛下ご自身の努力の賜物だと、私は勤労の尊さを子供たちに伝えてゆきたいと思っている。


* * * * * * * * *

あの川は、今でもときどき夢にみる。



「…陛下、
あの時
私のことをお忘れになったって」

川から引き上げられて、陛下に抱きしめられている最中、
本当に自分は死んでしまったと、信じていただなんて――おかしくてつい笑ってしまう。

「忘却の岸辺でこそ、
私はようやく見つけることができたんだ。
大切なもの、を、ね。
夕鈴―――」

そういって、今でも私一人だけに甘い甘い、狼陛下は
正式な夫婦となり、お子がおできになった今でも、
私のことを臆面もなく人前で抱きかかえ、イチャイチャ(以前、夫婦演技と呼んでいた以上のことを)なされるから堪らない。

思わず私もふくれっ面をしてしまうこともある。

だからちょっと意地悪して言ってみる。

「忘れてしまえ―――とおっしゃったくせに」

「忘れられなかった。
君のことだけは」

「うそ、つき…」

陛下はアハハと笑って、いまだにコロコロと表情が変わるものだから、そんな陛下にドキドキしてしまう。
怖くて、ご立派で、愛しくて――せつなくて。
私はいまだに、日々陛下のことが好きで好きでたまらなくなる。


「――本当に大切なものは、
見えないところにあると分かるまで
私は難儀したものだ――」

陛下は、優しい目で私を見つめる。

甘い眼差しにクラクラしながら、私は強がって反論してみる。

「ならば、私の大切な陛下も
私には見えなくなってしまうのですか?
忘れた方がよろしいのですか?」

と問えば

そうだな、それは…と、少々陛下は困ったお顔をされて

「では…ほら、こうすれば。
見えない――」

そういって、
私を抱きしめ、私が思わず目を閉じるのを知っていて唇をふさぐ。

「陛下、ずるい。
…そんなことしたら、
貴方のこと
忘れられません――」


「もう、いいんだ。

忘れる必要なんか、ない。
だって
私は許されたのだから。

私の幸福を手に入れてよいと
君が許してくれたのだろう――?

だから
君はずっと
…傍に居て」

甘い口づけを、一つ。
そして優しい微笑みを、もう一つ。

ともにある限り、
私はこんなにも幸せ。

それが、あなたの幸福であるならば
私もあなたにお返しを。


愛するあなた。

全て、あなたの、お望みのまま。


【完】
*

[あとがき]忘却の岸辺

「忘却の岸辺」は
ずっと二人が離れ離れで焦れ焦れ(20話中、二人が直接会えたのは19話の後半って)、
暗くて湿っぽいお話だったにもかかわらず
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

(せつないのが書きたいといっても、限度があろう!と
怒らないでやってください)

さる筋からですね
「夕鈴さんに、もっと拗ねてもバチあたらないよ」って
(私にとっては)よい反応のご感想をいただけて嬉しい。


へこんだまま、受け入れて
それでも前向ける夕鈴は偉いなーって。
思いながら。

自分もリアルで落ち込むことがあったりもした時期だったので
そんなこともオーバーラップしながら
20話、完アップするのに約2か月かかってしまいました。
いろいろ焦らしてしまったら、本当にすみません。

基本、私は悲恋あまり書かないものだから※ ←
「最後になんとか幸せになってくれるだろう」とご想像(ご期待)の読者の皆様 ←

せつないばっかりのパート(ここがほぼ9割以上)を
毎回「大丈夫?」「えーん、でも続き待ちます」と
我慢強く気丈にお待ちいただけたおかげで、なんとかお二人を幸せにすることができました ←

10割悲恋だったら、わたしも書く気力が萎えてしまうところでした ←←←

※たぶん、悲恋を書いたのはリクエストいただいて書いた短編(短編集(1)に収録の「還らずの時」という作品)だけと思います。
自分で忘れているだけかもしれません
もし他に悲恋書いていたら、教えてください ←?? 

<追記> 単行本「てすさびの総集編」に書き下ろした若かりしリーリー初恋の物語「流花」も悲恋でした。


なにはともあれ
最後までお付き合いくださり
本当にありがとうございましたm(_ _)m




さて、
ここからは、徒然日記です

私事ですが、
連載を書いている式に入っているときは
たぶん四六時中どこかひっかかっていて集中して詰まってるのですが、終わるとすぐに忘れてしまう。
ちょっと前の作品でも、すごく新鮮な気持ちで読めるのですよ
(単なるボケなのか、それともやっぱり小人さんが書いてくれてるのか)


作品の中に全部込めるのが筋で、
感想とか、あとがきとかは蛇足ですけど

作品の中には書けない舞台裏みたいなものもあるので
あとから読み返すことがあったとき、
『ああ、そういえば、そうだったっけ』と思いだせるように
忘れない内に書き留めておきます。





最初、読み切りで書いた「忘却の岸辺」を書く前は
あくまで短編読み切りSSのつもりで筆をとったのですが
書き終えた時点で
もう少し続けてみようか(みたいな)というのは(実は)ありました。

ただ、
すごく暗いお話で、どうかな、と踏みとどまっていたところ

すぐコメントで「続きが読みたい」というお声もいただけたので
連載してみようと踏ん切りました。

「君の名は」的なチョイとばかりレトロなすれ違い純愛焦れ焦れをイメージしていたので
最初の段階から陛下と夕鈴の二人が再開するのは最後の最後、クライマックスまでないなー
でもきっと、読み手さんに怒られるなー、と。

それで、どこまで引っ張れるかなー
なんて意味ではチャレンジングな作品でした(←?)





そもそも
陛下の「忘れてしまえ」の一言が切なすぎて。


忘れたいことだけ忘れさせる
そんな便利に忘れてしまう薬とかあるのかな、と
調べてみるとまあ、そういう薬効成分というものも無くはないようで

――そんなあたりを考えていて、連載になってしまったのです。


ただ、忘れさせるメカニズムについてはなんとなくウラがとれたので書き始めたものの
『忘れさせる薬』については、嘘八百です。
決してご自身で試そうとかはなさらないでください(笑

激痛を伴う、とか
忘れることが一か八か、とか
忘れたことを再生できるか、とか
そのあたりは、完全なるねつ造設定ですからね。

『コーヒー飲んであたまがすっきりする』みたいな
そんな一時的な効力ならよかったんですけど、それではお話にならないので、ごめんなさい。


アナログの情報記録媒体では
消去したデータでも、場合によっては復旧できることがあるので
黎翔さんの記憶のサルベージできればな、と思っていました。


お母様との過去のトラウマが引き金で
じつは薬を用いて消去した夕鈴という存在以外のことについても
彼は心に蓋をして忘れていたことがあって

それが、首筋の縄の痕という
一番象徴的な現象を目の当たりにしたことで
過去の辛い記憶が暴走しはじめ脳内に痕跡として残されていた記憶情報が再生し始めた、という、そんなイメージで受け止めていただければな、と思っています。


自分は、幸せになんか、なってはいけないという『呪縛』と
『大事な存在だから、隠したかった』
だから徹底的に、自分の記憶からも抹消するという念の入れよう。

(スパイの、アレですね。
ほら、拷問を受けた時に、万が一自白剤を打たれても漏らさないように、本当に大切な秘密は自らを封印するとか…その手の?)


黎翔さんも
その母上もたぶん同じで

その思いが強すぎた悲劇。
(あくまで捏造ですが)

夕鈴さんのバイタリティーで何とか救ってもらえましたが
普通ならオシャカでぽしゃるところです。(笑)





書き方としては、渋めのテイストで抑えめで(つもり)?

なんとなく暗い話でも
さらっと読めるように書きたいなぁ、というところはあったので

途中、三人称視点から一人称に語りを切り替えたり
モノローグも陛下の視点、夕鈴の視点とけっこう細かく入れ替えて
さりげなく新鮮さとか起伏が生まれるように心がけました。

それはゲームごとにサーブ権が変わる感じで
意識的にわざとやってるんですけど(私の長編物は、たぶんたいてい)

語りが切り替わるのは統一感がなくなるので小説のセオリーとしてはハズレなんでしょうが
登場人物一人一人の視点でカメラを切り替えるような
アンサンブル・プレイというか、グランドホテル方式とか群集劇?というのですか?
そんなあたりだと思っていただければな~と。


あとは、今回はトーンを落としたかったので
入り・抜きで遠近を付けたかった、ですね。

それで
どちらかというと陛下側の心情を掘りさげて、

女性側の夕鈴の内面は
(たぶん女性中心の)読み手様の感じてくださる”ライブな心情”を生かすために
どちらかというとあえて省いた、です。


今回の「忘却の…」では、
周りの人の言葉や考えも
物語の複線になるトコとか、ヒントになる部分だけクローズアップして
その他はあえてボンヤリ描写せず
説明とかも書きすぎないで抜いて

思考の一瞬を掘り下げて
周囲で流れる時間は速度をあげて

ドロドロはしないように
(グログロしても)

というかんじ、でしょうか…

言葉にするとなんだかすごくガッチリ考えてやってるみたいですけど
実際は、大まかな世界観というかイメージに向けて
感覚的にそういう判断をその場その場で選択してるだけで…
とくに手法とか、仕掛けとしてやってるわけではありません。

 ――ぼんやり、ですが
そんなとこは意識してたかもしれませんね、っていうくらいのお話です。


うまくいってるかどうか、わかりませんけど。





今回は、登場人物が多い。
…これは結構、厄介でした。

でもいちおう、それぞれの役割があって
そういう流れが生まれるので…

それぞれの思惑が入りこみすぎると
ストーリーに雑味が入り分かりにくくなってしまうし

無駄に長い連載は体力と気力が続かないので。

…出番以外はけっこうあっさり遠景カットしちゃいました。


夕鈴になんちゃってプロポーズした克右はどうなったの、とか。
墨を被った氾大臣の衣裳の弁償は誰がしたか、とか(きっとオシャレなあの方ですから。たいへんお高くついたのでは…?)
怪我した浩大と、方淵のその後は?とか。
水月さんの笛の錦の袋の中には本当は何が入っていたの?とか
それよりなにより、助かった後、二人で過ごしたお話は?とか――

いろいろ知りたいところはあるんですが
小人さんも精一杯でこれ以上聞きだせませんでした ←

イチャイチャがすごく少ないストイックなお話だったので
最後までストイックに
話の筋としてあえて必要なければさらっと過ぎちゃいましたね(笑




『今回は、何話狙い? 20話完結?』
と、常連さんの中にはそのあたり当てっこなさる方もいらっしゃるのですが(笑
(今回もまだ10話前後書いてるあたりでしたか? ――ね?)

はい、20話でした。ちゃんちゃん。
おめでとうございます!(笑)


でも、16で終わらせようとか狙うときもあるので
あまりプレッシャーかけないでください(爆)m(*´▽`*)ウファ






それでは
なんか、長々と失礼いたしました。(笑



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